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2023.03.10

日本におけるフットボールの厂史(8) 1937春~秋

お知らせ

◆ 1937(昭和12年) ◆

 

とにかくこの遠征は日本のフットボール界に大きな功績をもたらしたのである。それは東京学生聯盟加盟5大学から代表選手が参加したので、帰国後各チームに帰り新しい技術を各自のチームに植つけたために、その年のリーグ戰は目ざましい進歩の跡が各チーム共見えた。

 

2月5日夕方6時30分から朝日新聞社講堂で遠征軍の帰朝報告会が行はれた。この会には駐日米囗大使クルー大使も出席し「日本人のスポーツに対する熱意をたたえ日本のフットボールの発達によつて益々日米青年の親善が蜜になることを願ふ」と云う挨拶があつた後、加納氏の報告があり、パラマウントニューズの上映又ハワイ二卋によるハワイアンバンドの演奏等賑やかであつた。参加したのは東京学生聯盟参加校の選手役員等約100人であつた。

 

これより先に立教大学は1月24日関西遠征をして関西大学と甲子園南運動場で試合をした。実はこの試合の決定したのは前年11月中頃であつてリーグ戰終了後12月の下旬に挙行する予定であつたが、アメリカ遠征があり立教からもスタープレイヤーの安藤と中村が参加するので延期して、アメリカ遠征軍の帰朝後と云うことになり、一行が1月22日帰国するので24日となつたのである。これにも又加納氏に頼んで朝日新聞社から遠征費を補助してもらつたのである。

 

その当時関西には関西大学しかチームがなく、関大は対手を東京に求めるより他になく東京からもチームがよく関西に行つていたのである。関西大学にチームが出来たのは昭和10年1月でありこの点では慶応、法政と同様の時期であつたが、設立の意図は東京チームが出来たことに刺激されて出来たのではなく全く独自の意図によつて設立されたものらしい。

 

即ち関大のOB関西スポーツ界の大御所の松葉徳三郎氏が当時大阪Y.M.C.Aの体育主事であつたが昭和7年にロスアンゼルスで行われたオリンピックに行き南加大学とスタンフォード大学の体育施設を見学した時、フットボールを知り同年11月帰国し大阪YMCAに居た米囗スプリングフィールド大学を卒業した竹内伝一氏にルールを教はり、神戸の外人クラブのKRACに行きそこでハワイ大学でフットボールの選手をしたことのあるハワイ二卋のレイノ上島氏に紹介され、彼に基本的なフォーメーションを教はつた。

 

そしてフットボールに益々興味を持ち何とか日本にもチームを作りたいと思つていた時、東京にチームが出来たのを知り母校の関西大学に昭和9年秋にフットボール部を創設するべく部員募集した。この時約30名の学生が応募し、コーチに竹内伝一、レイノ上島、ハワイ二卋のポール加納、森本が当つた。

 

そして昭和10年1月13日に甲子園南運動場で東京学生米式蹴球聯盟の早稲田大学と明治大学が朝日新聞の後援で関西における日本で最初の紹介試合を挙行した。この試合は13対0で明治が勝つた。この試合に刺激され昭和10年1月29日に大阪YMCAで関西大学フットボール部の発会式を挙行し、ここに関西で初めてフットボールのチームが誕生したのである。

 

そして昭和12年に関西外人クラブKRACにチームが出来るまでは2年間関西唯一のチームであり、試合対手は東京から遠征するチームか或は東京まで遠征するより方なかつたのである。そして昭和15年に同志社大学にチームが創立され、昭和16年に関西学院大学にチームが出来てここに関西三大学リーグが誕生したのであるが、関西大学は昭和12年頃は唯一の関西チームであつた。この頃迄関西大学は昭和10年12月1日に法政43対0関大。昭和10年12月15日に慶応23対0関大。昭和11年5月30日に東京芝公園で法政39対0関大と云う成績を残して居り、未だ1点の得点をもしていなく、東京とは実力の差があるのもこれも止むを得ないことであつた。その為に試合の対手がほしくて仕方がなかつたのである。

 

これも最初は12月初旬の予定であつたが、アメリカ遠征の為に1月末まで延期されたのである。立教としても最初の遠征であり全員参加したいので延期したものであつた。アメリカ遠征の安藤、中村は1月21日夕刻横浜に入港し、翌22日に朝日新聞社で解散式を行ひチームに戻つて来た。そしてその翌日の1月23日午前9時東京駅発のつばめで関西に向かつた。アメリカ遠征の安藤、中村は長途の疲れも見せず元気に参加したのである。なおこの関西遠征には3月に卒業する選手は参加しなかつた。又練習も全員揃つての練習は出来ず残留者のみで軽いシグナルプラクティスを3日位たつただけであつたが秋のシーズン中の練習の引続きであるのでタイミングやコンビネーションには不自由なかつた。又フォーメーションは秋のシーズンに使つたのをそのまま使用することにしたのである。

 

一同揃つて修学旅行気分で大阪駅に夕方5時着、直ちに出向えの関大マネージヤー他に逢い、阪神電車に乗り甲子園に行つた。そして甲子園ホテルに入り、入浴、夕食とすませ夕食後ミーテイングを行つた。このミーテイングは主将の安藤が主席であつた。前主将の太田は3月卒業なので次期主将は11月中頃のミーテイングで安藤と決定していたものである。一応明日の試合に対する作戰等を打合せその後は主として遠征の土産話が主であつた。この甲子園ホテルは仲々立派なホテルであり又食事に牛肉を沢山出してくれた。さすが神戸牛の味はまた格別であつた。

 

又阪神電鉄は吾々の為に乗車券を沢山くれたのである。明日の試合は吾々の後にラグビーの試合があるとかでキックオフは11時30分と云うことであつた。それで一同明日に備えて早く床についた。翌日は曇り空であつたが午前7時に起床し朝食後甲子園南運動場で軽い練習をしている内に天気は良くなつて快晴となつた。それで一旦ホテルに帰り軽い昼食をして午前11時頃ユニホームで試合場の甲子園南運動場に入場した。試合開始11時30分と云う中途半端な時間でもあり、又関西にはなじみのうすいフットボールである為見物は少なかつたが、グラウンド自体は中々立派なもので、一寸東京には少い位であつた。

 

結果は昭和12年1月24日午前11時35分関大キックオフ、上島(主)、斎藤(副)、加藤(計)、森本(線)の4審判で

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
立 教 6 0 12 14 32
関 大 0 0 0 0 0
立 教 関 大
田 辺 LE 吉 田
鈴 江 LT 藤 本
安 藤 LG 丹 羽
服 部 C 秋 元
RG 北 村
小 黒 RT 岡 本
亀 井 RE 中 川
鈴 木 QB 岩 井
中 村 LH 難 波
細 田 RH 岡 村
浅 賀 FB 坪 井
交代

(立教):稲熊、池上、竹内、尹、岸

(関大):橘谷、森田、幸、山内、館野、佐伯、滝山

この試合で立教は初めて6人防禦ラインを採用した。それまでは防禦についてもラインは7人であつたが、アメリカ遠征の影響でセンターを下げてバックアップの位置におきラインを6人にする防禦法を練習を兼ねてこの試合から採用したのである。その結果成績は仲々上出来であつた。

立教は練習不足の為前半は仲々思うように試合は進行しなかつたが、5分に関大15ヤードから中村の右オフタックルで最初の得点を挙げた。その後の立教のキックオフの球を関大は自陣15ヤード位の所で円陣を作つて動かないのには一寸面喰つた。立教タックラーが近付くとその円陣は四方にフェイクして散つて行く古いフォーメーションを使つたがそれは好果を示さなかつた。

 

後半になりやつと立教はまとまりが出て実力を発揮し、関大5ヤードから中村右エンドランでタッチダウン、6分にも関大15ヤードから中村右エンドランでタッチダウン、第4クォーターには関大15ヤードから中村左エンドランでタッチダウン、12分関大15ヤードより安藤(FBになつていた)中央突破で一気にタッチダウンを挙げ、結局32対0の大差で立教が勝つた。立教はシーズン以後殆ど練習はしていなかつたので、前半は調子が出なかつたが後半になつて調子を取り戻してからは楽な試合であつた。試合終了後ホテルに帰り入浴後早目に夕食をすませて全員散々伍々に阪神電車の乗車券を持つて四散し大阪の夜を楽しみに大阪市内に出掛けた。門限は11時であつた。皆目抜けの場所に出かけて大阪の夜を楽しんで翌朝の汽車で大阪を出発帰京した。これが立教フットボール部の最初の遠征であつた。

 

なお前年12月初めの新聞に次の様な面白い記事が出ていた。その真疑は不明であるが新聞に出ているので全々ウソでもあるまい。

 

「日本から持ち帰つたペルリ縁りの勝利の鐘米囗海軍兵学校の祝勝式に鳴る」と云う見出しで

 

「アメリカ蹴球界の人気試合たる陸海軍対抗試合-ウェストポイントの陸軍士官学校対アナポリスの海軍兵学校の蹴球戰は今シーズン(11月27日)フィラデルフィアで行はれ10万2千と云記録的な大観衆の下に非常な接戰を演じたが、兵学校の鮮かなフォワードパスが決つて27対0で海軍に凱歌が挙がつた。

 

ところでこの兵学校には陸海軍対抗戰創始以来極めて意味深重な習慣があつて、未だに厳かに行はれてゐる。それはアーミーを破つてウェストポイントに帰つて来るとその昔ペルリ提督が日本を訪れた際琉球から持ち帰つたといふ由緒の鐘をキャプテンが得点の数だけ打ち鳴らして勝利を祝福するといふ凱旋式であつて、「日本の鐘」をつくところがわれわれにもウレしい。この鐘は兵学校々庭の一番神聖なところにそなえてあつて陸軍との蹴球の対抗戰に勝つたときだけしか鳴らさない敗北を知らぬ勝利の鐘だ。そしてその嫋々たるしらべには兵学校数千の若人の歡喜の血が流れてゐるようといふこの上なくおめでたい鐘なのである。

 

ところで5千の海兵がこの鐘の前で盛大な祝勝式を行つたのであるがフットボールチームの主将モレル君が髙らかに七度この勝利の鐘を打ち鳴らす栄誉をになつた。そして最後の余韻が消えるとこの鐘は次の対抗戰まで黙々として海の児らが勝つて帰るのを待つてゐるのである」

 

と云ふ小記事である。日本で余り盛んでないフットボールに日本のお寺の鐘がアメリカで鳴らされていたと云ふことは全く面白いことである。

 

さて以上で昭和11年度のフットボール界は幕を閉じてやがて4月新入部員を加えて行ふ春の練習期間迄は休みとなつた。

 

この年に東京学生米式蹴球聯盟各大学の卒業者は、

早稲田では有賀、川島、兼安、井上、永井、島袋、柏原、小林の8名、
明治では畑(稔)、畑(進)、阿部、仁井、の4名、
立教では太田、相京、中田、井上、の4名、
法政は西原、梶谷、鈴鹿、藤間、浜本、名護、森、小泉、宮武の9名、
慶応は木村

 

とフットボール界初めて多数の卒業生を送り出し各チーム共その穴埋めを新入部員の獲得で補うため、新入部員募集に懸命で入試試験をねらつて残留部員を引つぱりに学校に出かけたものであつた。

◆ 1937(昭和12年) 春 ◆

 

そして此の年新たに立教のフットボールに入部した者は陸上競技部から学部2年生の栗林それに早稲田の専門部卒業で同大学のフットボールのセンターを務めていた島袋、新入生では金子、松田、内藤、鄭、の6人であつた。各大学とも卒業生を送り出し新入部員を加えて4月末日から5月の末日にかけ春の練習に入つた。そしてその終りには相手を選んでスクリメージ(練習試合)を行つた。

 

この5月中頃の新聞に次のような記事がある。

「眞紅な上衣に、眞白なズボン憂鬱を吹き飛ばさうョ」と云う見出で、

 

「アメリカのカレッジ生活の華と記はれる学生バンドの王者-カリフォルニア州パサデナ市の有名なパサデナ・ジュニア・カレッジの男女学生200名から編成された「トーナメント・ローゼス・バンド」が今夏、休暇を利用して日本を訪問、観光を兼ねてアメリカ独特のカレッジアン・スピリットを紹介したい、と今回堀ロスアンゼルス領事を通じて同学長ジョン・Wハープソン氏から外務省に正式に申込んで来た。

 

此のパサデナの学生バンドは全米数千万の若人達の胸を躍らせる大蹴球戰「ローズ・ボウル」の東西対抗試合に常に西部の各大学を代表して応援演奏を行ふのみならず、南部カリフォルニアの諸都市のあらゆる市民行進には常にパレード随一の人気者として先頭をリード、はち切れさうな明朗と感激の青春風景を描出してゐる。

 

ハープソン学長の手紙によると「アメリカのカレッジ精神と意気のため」この200人の学生バンドをつくつたといはれ眞紅の上衣に純白のズボンのユニフォームで堂々と市中や競技場を大演奏行進するさうだ。演奏プログラムは音楽パレード、ヴォ-ドヴィル、カレッジ的余興とすこぶる多様で指揮者簾ストング氏の手紙には音楽は卋界的な云葉です。

 

この非常に有名なアメリカ学生のバンドは日本のために大きな貢献をするでせう。と熱情を披訂してゐる。日本には一ヶ月滞在の予定で外務省でも大歓迎で実現方を斡旋する筈」

 

と写真入の記事が大きく掲載された。

 

ローズボウルゲームの際デモンストレーションや応援のバンドと云うので吾々も映画でよく見るので非常に期待していたのであるがその後は何の音沙汰もなかつた。結極は来日しなかつたのではなかろうか。このバンドがその夏来ると云うので楽しみにしていたのであるがその後は新聞にも何も出なかつたし、又そのバンドが来日したと云ふ噂も聞かなかつたが残念であつた。

 

この年の4月に聯盟から各大学に60円の金銭が授与された。この金はアメリカ遠征チームが帰途ハワイでルーズヴェルト・ハイスクールと試合した時の入場料の内、総ての計費を差引いたものが聯盟に送られて来たものであつて、その内から聯盟の諸経費を差引いた残りを加盟5大学に均等に分配したものであつた。各大学共思はぬ収入があつて大喜びであつた。

 

僅か60円とは云え立教大学の体育会から部外団体であるフットボール部に来る年間予算は30円であつたのに比すれば、この60円は如何に重要であつたか想像がつくと思はれる。そしてこの金は殆ど玉沢運動具店の借金返済に当てられたのは各大学とも同じであつた。それで当時としてはハワイ遠征は大変皆が期待し、單独のチームでもチャンスがあつたらハワイに行こうと意気込んだものであつた。即ち20名のチームで貨客船に乗つて行けば全部で費用は1,000円もあれば足りるのである。1人千円ではない、1チームで千円なのである。そして現地の滞在費と帰路の船賃は現地で一試合すれば充分に出る。そして更にもう一試合もすれば帰りに土産の金銭をもつて帰ることが出来る計算になるのである。これは実現不可能ではないが又一方では予定通り収入のない場合の危険もあつた。事実明治のバスケットボール部がそれでハワイで立往生して部員がアルバイトして帰りの船賃を工面したこともあるが、バスケットボールとフットボールでは多少違う面もあるので色々と各チーム共研究したのであるが、日支事変が起つてあらゆる海外遠征は非常に困難になりどのチームも実現しなかつた。

 

そしてこの年、即ち昭和12年7月には北支那北京郊外の露溝橋において駐支日本軍と中国軍と交戰状態に突入し、いわゆる第二次支那事変がぼつ発した。この北京郊外の日中両軍の交戰状況は直ちに上海に飛火し、上海陸戰隊と中国軍とが上海市街で交戰し戰火は一気に全中国に拡大されて行つた。この為に国内においては予備役兵に召集がかかり聯日出征兵を送る歌が町中にひびいていた。吾々のフットボールの最初の実施者であつた西島威も学業半ばでこの夏に応召して中国大陸に向つた。このように卋状が騒がしくなつている中で吾々は9月からの合宿の準備に忙殺されていた。昭和12年8月発行の「立教大学米式蹴球部夏期部報第6号」にはポール・ラッシュ教授が次のような一文を寄せている。

 

「今将に催されんとする立教大学米式蹴球部の夏期合宿に参加される部員諸君。

諸君は今日尊い生命を賭して北支及び中支で邦家日本の為に正義の御旗の下で、戰つておられる諸君の先輩兄、親類同胞の第二のものとして、次に来るべき国家の中堅者となるために、今度の合宿に参加して、第一に精神訓練そして肉体の鍛錬をせねばなりません。

 

参加前軽井沢に出掛けぬ前に既に充分の覚悟をしていかねばなりません。遊びに行くのではないのです。又他の運動部が合宿をするから諸君も合宿するのではないのです。どうか根本的の精神をしつかりと握んで行つて下さい。合宿ではいろいろとつらい、いやな事も沢山あるでしょう。面白くないこともあるでしょう。でもどうか大きな眼、大きなしつかりとした腹をして大局をつかみ進んで下さい。そして合宿が終るとき反省して合宿に参加する前にした覚悟の実現に失敗ないように努力して下さい。

 

私は9月9日の船で米囗の大会に参加の為一時留守にします。然しどうか憶えていて下さい。私の心は何時でも諸君の上にあることを。合宿の成功、今シーズンの制覇を祈つて止みません」

 

と云うものである。

 

ポール・ラッシュ教授としては非常に珍しい文章である。平和愛好家で宗教家である同教授としては珍しいのである。それはもう日支事変が始ると同時に日本は非常事態に入つて、国内全体が戰事態勢に進行して行つているのである。軍国日本の態勢は固りつつあつたのである。このような時期に同教授としてはアメリカの国技であるフットボールが今後どのような位置におかれるかを予測し、これを少しでも好転させる為の方法は何かと云ふことを心配していたのではないだろうか。このような非常事態の内に吾々は第四年目のシーズンを迎えることになつたのである。

 

7月初旬夏休みになると部員は各自遊びに海や山或は故郷に帰る者もいて学校は静かになつた。そして9月1日からの合宿に備えて各自で体力の基礎をつけるべく適当なトレーニングを続けていた。立教の合宿は今年も又軽井沢の星野温泉と決つた。もう星野温泉にも3回目の合宿とあつて皆充分に気心も知れて我が家のような気がしていたのである。然し一方中支の上海では激戰が繰り返され巷には出征兵士を送る歌があふれていた。

 

8月31日の夕方一同揃つて星野温泉の合宿に入つた。それから2週間は例年の通り浅間山を仰ぎ見ながら練習に汗を流した。この合宿の間の一夜の慰安日の行事はもう定例になつてしまつて星野温泉の人達も楽しみにして、我々に催促する位の人気であつた。

 

例に依つて各部屋毎に趣興をこらしてかくし芸を披露するのである。宿の人或は宿泊のお客さん迄が大広間に集つて来て見物するようになつてしまつた。一方グラウンドの方は年々良好になつて来たがそれでもまだ火山櫟が下から出て来て部員一同すり傷がたえなかつた。合宿を終了して午後の列車で帰京する途中蕨の駅の近くに「シャンクレール」と云うダンスホールがあつたが、その看板が列車から見えると一同大喜びの歓声を挙げて上野に着き解散した。

◆ 1937(昭和12年) 秋シーズン ◆

 

秋の練習は9月中旬から又石神井公園の清水組のグラウンドで聯日行われた。そして9月20日頃には秋のリーグ戰のスケヂュールが発表された。10月2日:明治対慶応、9日:早大対立教、16日:法政対慶応、23日:明治対立教、30日:早大対法政で、これまでは多摩川のオリンピア球場。11月5日:立教対慶応、12日:明治対法政、19日:早大対慶応、26日:立教対法政、12月1日:明治対早大で、明治神宮外苑競技場と定まつた。

 

この発表と前後して東京学生米式蹴球聯盟の空席となつていた会長にアサノセメント株式会社の取締役浅野良三氏が就任して、ここに聯盟としての立派な体型がととのつたのである。この頃の新聞に次のような記事があつた。

 

「米蹴リーグ、新星に充実、来月2日開幕」と云う見出しで

 

「東京学生米式蹴球リーグ戰は10月2日から本年度のシリーズを展開するが例によつて早、明の王座爭ひは動かぬところと見られながらも慶、法、立の3チームが充実して来たので俄かに予断出来ぬ情勢である。各校とも多数の新人を入れて陣容は何れも豊富だが、その中で明治のレフトハーフとしてデビューする国重は今春フレズノから帰省した二卋で加州の相撲と400ハードルの選手権を持つ優秀選手で体重20貫馬力と俊足に米囗仕込みの腕前は今シーズン各チームの脅威と見られてゐる」

 

と云う記事で新興スポーツとして4年目を迎えたフットボールの記事に新人が入つたと書いてあるのは当時如何にフットボールの将来の発展に期待されていたかがわかるものであろう。

 

又10月1日の朝日新聞の運動欄には加納氏が5段抜きで大きなリーグ戰の予想を次のように書いている。

「愈々けふから米式蹴球戰早明の堅塁に突撃、立法慶の躍進目覚し」の見出しで

 

「東京学生米式蹴球聯盟昭和12年度リーグ戰は愈々2日慶明の試合をもつて開幕のはこびとなつたが、昨シーズン終了後、ロサンゼルスの有力者より招聘を受け、加盟5大学より精鋭を選つて遠征し技術並びに精神を練磨するのに絶好の機会を得た。

 

メンバーは昨シーズンリーグ戰で最優同率となつた早、明からその主力を、租他の各校へもこの好機を捕へ本場米囗の最新知識を輸入することが出来るよう法、立、慶の代表も選抜して行き、数多の収穫を挙げ帰国したのであつて、各チームは夫々代表選手の新知識によつて今シーズンはプレイの上に幾多の改良進歩の跡が認められるが、中でも法立慶の下位チームが割期的の躍進をとげて早、明の上位チームに急迫してゐる勢は注目に値する。

 

昨シーズン迄上位の早、明の事実上の優勝戰である早、明の一戰に主力を盡すことだけで足りてゐたのであるが、今シーズンの現状は早、明にも昨シーズン迄の気易さを許さず、試合を追つて歩一歩勝利を確保して行くことに全能力を盡さなくてはならなくなつた。

 

明大 新主将ハーフの畑(弘)君の下にバックには浜崎、国重、藤家、保田、栗崎、胡子、の諸君、ラインには富山、近見、黒川、坂本、竹下、渡辺、町田の諸君を第一線に挙げてこの外20名の多数交代選手をようしてゐる。

昨年の主力選手からは畑稔、畑進、大前、阿部、半田の諸君を失つたが、戰法としては依然ノートルダム及びスタンフォード大学のシステムを併用し前者の長投、長駆を志す玉碎的戰法に後者の複雑多彩なトリックプレーを配してゐるのだが、フォワードパスには50ヤードの投球可能な胡国重両君あり、トリックプレーによるオフタックルのライン突破には近見21貫渡辺19貫といふ重量両タックルを有するので、バックに十分な時間と広さを与え巧微な走法をもつてゐる畑主将や藤家君の突進を遺憾なく発揮させるだろう。又前記の国重君は加州フレズノ生れで加州インターハイの昨年400障碍記録保持者で相撲でも加州邦人間で優勝した万能選手、近見君は今夏加州訪日相撲団の斗勝であつた。

 

早大 戰法としては早大伝統の着実な漸進を主義としてゐる。従つてラインも球を持つセンターを中心に左右両翼に平均した人員を配して相手の予測を許さずラインのどこへでも機に応じて突進を試みるといふバランスフォーメーションを布いてゐる。

最優のラインアックと思はれるものはラインを左から野村(E)、島村(T)、上野(G)、福田(C)、後藤(G)、西岡(T)、山田(E)、永井(Q)、野内(H)、岩本(H)、内藤(F)、大林(F)といふところだが、早大には米囗遠征にプレイヤーで助コーチとして参加した下田君を始め永井、中山、野村の4君が健在で遠征によつて得た経験を多分に生かし、結局軽量な日本人チームとして国際試合においては球がプレイに移されてからは可及的に時間を空費することなくラインメンが開いた突進路に突入しなくてはラインは相手の重量あるラインメンによつて再び次の瞬間には塞がれてしまうといふ理由によつてであろう。

バックメンは既定の方針に従つて捕球と同時に間髪を入れず突進して相手のラインを割つて出るという速攻法を主戰斗武器としてゐる。殊にセンター福田君は今春ハワイから入学した新人ではあるがハワイオールスター軍に選抜された優秀なプレイヤーである。今年は又新入部員が20余名加はり部員数の上では5大学一の盛大さを誇つてゐる。

 

立教 昨年のメンバーからはクォーターバックの井上、エンドの中田君が卒業しただけで今春の米囗遠征にガードとして選ばれ、その活躍を認められた安藤主将の下に、これ亦遠征軍中の名キッカ-中村君も健在である。中村君のキックはリーグの中でもその右に出るもののない長飛距離と確実性を有し立教が作戰として敵のキックを受けるや否や蹴り返へしその結果生じた地点を死守して攻撃権を得、これよりラインの突撃又はパスにより間近の敵陣を陥れるといふクィックキックの戰法を特色の一つとするところからみてもうかがい知ることが出来よう。

 

法政 18貫強のラインメンを揃へ得た今シーズンの法政はバックメンの突進を強化するためラインの人員を一方に片寄せて掩護するアンバランスのラインを布くにはまず有効な重量をラインメンに集めることが出来たといえよう。

バックメンの顔ぶれはボールのキャリアーとして又長蹴者として有能な三枝君を始めトリックプレーに秀でた白石、小野の両ハーフがある。ライン突撃のコースとしては持田(19貫)内海(21貫)の両タックルを持つ関係から殊にオフタックルには断然自信を強くしてゐるものの如くで、又内海君をエンドとして出場させるとき三枝―内海のコンビネーションで狙ふ長前投球にはこれ亦相当の期待をかけ得るものと見られてゐる。昨年の主力からはバックで梶谷、西原の駑級、名護、浜本の諸君を失つたが大村主将を中心に益々団結心を鞏固なものとした今シーズン法政の躍進は注目に値するであらう。

 

慶応 ここは田村、保木、緒方と100米11秒の走力を持つプレイヤーをバックに揃へてゐるのだが、昨年度は重量の割にはラインが脆くしばしば相手方にラインを割られたので、バックの走力を現はす機会に恵まれことが甚はだ少なかつたが、中本コーチは昨年より引続きラインの技術発達に重点をおいて殆ど昨年と変りないラインメンに全精力を傾けて指導したので、最近の向上振りは素晴らしく、今年こそバックの駿足並びに片岡主将及び栗原君の強靭な突進力を生かして目覚ましい攻撃を展開することであらう」

 

と云ふ長文の予想記事を書いている。

 

文中何か辻妻の合わない文章になつている処はあるが、加納さんが酒にでも酔つぱらつて書いたのかも知れないが、大朝日新聞にこれだけのスペースをさいて掲載したことは最近では全々ない。如何にその当時フットボールに着目していたかが偲ばれる。

 

こうして昭和12年のリーグ戰は多摩川のオリンピヤ球場で開幕された。10年、11年と親しんで使用していた芝公園の競技場は陸上競技聯盟からの横槍で東京市当局から使用を断はられたのである。

 

フットボールが芝公園を使用するようになつてから夜間照明設備やその他の施設の改善そして芝公園の知名度を髙からしめたのであつたが、その結果陸上競技聯盟がこの競技場を公認し正式な陸上競技場と設定し、他の競技会の開催を極力閉め出すことを東京市に申し入れをしたことと、東京市としては市民の為の陸上競技場としての大義名分上からフットボールにも良い日を割当てくれないので、多摩の原つぱの様な河原で開催するより仕方がなかつたのである。

ここは東横電車の多摩川遊園地の対岸で、勿論スタンドもなければその他の設備もない、只の原つぱである。多摩川球場と云つてもそれは草野球の球場で5チームも10チームもの草野球の出来る河川敷のグラウンドですぐ傍には多摩川大橋が頭の上にかかつてゐる処であつた。従つて見物人も少なく競技している方としても張り合いがなかつた。

 

昭和12年10月2日午後2時半から明治対慶応の試合でこの年のリーグ戰は開幕された。その結果は次の通りであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 7 6 0 7 20
慶 応 0 0 0 0 0
明 治 慶 応
大 村 LE 藤 原
LT 松 尾
清 水 LG 富 田
坂 本 C 光 吉
竹 下 RG 加 藤
石 橋 RT 渡 辺
富 山 RE 田 澤
胡 子 QB 保 木
国 重 LH 田 村
浜 崎 RH 遠 見
藤 家 FB 片 岡
交代

(明治):谷、髙木、原田、黒川、椙山、栗崎、畑、横山

(慶応):上村、山岸、今村、竹村、鹿島、柳田、稲葉、桂、根本、浮上

この試合は明治は2軍を使つて楽に勝つた試合であつた。そして第1軍は殆ど使はなくても済んだのである。

 

10月9日は早稲田と立教の試合が挙行された。当然このグラウンドには夜間照明はないので開始時間は午後2時半からであつた。吾々は渋谷駅から東横線で新丸子迄行き新丸子で下車し、多摩川原近くの風呂屋と契約してあつたのでその風呂屋でユニフォームに着換えてグラウンドに出た。グラウンドとは云つても只多摩川の河原にラインが引いてゴールポストが立つているだけのものでダダッ広いしまりのないグラウンドであつた。これならば石神井の立教のグラウンドの方が数段上である。河原にはヨシズ張りの茶店等もあつて呑んびりしたものであつた。

 

試合は松本(主)、中本(副)、今村(線)、黒川(計)の審判の下で挙行された。結果は以下の通りであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 0 7 0 6 13
立 教 0 0 0 0 0
早稲田 立 教
野 村 LE 上 田
島 村 LT 小 里
藤 岡 LG 池 上
中 山 C 服 部
上 野 RG
西 岡 RT 鈴 江
村 山 RE 菊 地
永 井 QB 鈴 木
岩 本 LH 中 村
野 内 RH 細 田
内 藤 FB 浅 賀
交代

(早稲田):吉本、福田、福島、田口、下田

(立教):栗林、竹内、島袋、亀井

この試合では立教は練習中の故障者が多くそれに強敵の早稲田であり又リーグ戰の第一試合であるので二軍を使用することが出来ず、全員殆どフルタイムの出場でよく頑張つたが、最後には疲労して追加点をとられて惜敗した。

 

この試合中、RH細田はロッ骨を折つて痛がつていたが、グラウンドに来ている医務班の日本医大整形外科の櫻井医師は胸にバンソクコーを貼つて大丈夫だからゲームを続けろと云はれて、試合を続けた。試合が終わつて風呂に入つて電車で新宿に帰り新宿で私と2人で食事して四谷の「きよし亭」に寄席を聞きに行つたら彼は胸が痛くて笑うことが出来ないとこぼしていた。翌日彼は日本医大でレントゲンをとつたら2本ヒビが入つて居たとかでしばらく練習を休んだ。

 

10月16日は山田(主)、井上(副)、町田(線)、安藤(計)の審判で、法政対慶応の試合が挙行され、結果は以下の通りであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
慶 応 0 7 0 7 14
法 政 0 0 0 0 0
慶 応 法 政
田 沢 LE 谷 田
茂 木 LT 持 田
下 村 LG 大 村
吉 田 C 笹 沼
富 田 RG 小 池
津 上 RT 竹 中
鹿 島 RE 内 海
桑 原 QB 三 枝
緒 方 LH 六 井
竹 村 RH 小 野
片 岡 FB 中 島
交代

(慶応):遠見、上村、桂、加藤、稲葉、山片、今村、保木、田村

(法政):梅野、橋本、鬼塚、藤本

慶応はこの試合ではラインが健斗しバックの進路を開いてバックをよく走らせて部の創設以来の快勝を挙げたのである。

 

10月23日は中島(主)、中本(副)、保科(線)、下田(計)の審判で、明治対立教の試合が2時半から多摩川オリンピア球場で行はれた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 12 0 0 0 12
立 教 0 0 0 0 0
明 治 立 教
椙 村 LE
渡 辺 LT 鈴 江
黒 川 LG 池 上
坂 本 C 服 部
竹 下 RG
石 橋 RT 小 黒
町 田 RE 上 田
保 田 QB 鈴 木
国 重 LH 中 村
胡 子 RH 浅 賀
藤 家 FB 安 藤
交代

(明治):浜崎、原田、伴、松本、清水

(立教):金子、島袋、栗林、竹内、松田、内藤

この試合では立上り立教の調子が出ない内に立続け明治の早いプレーにまどわされ、バタバタと2つタッチダウンをされてしまつたが、その後は立教も立直り明治と互角に戰つたが第1クオーターの12点が大きくひびき惜敗した。

 

10月30日はファーラー(主)、川島(副)、黒川(線)、山田(計)の審判で2時30分から多摩川オリンピアで、早稲田対法政戰が行なわれた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 12 7 14 13 46
法 政 0 0 0 0 0
早稲田 法 政
山 口 LE 谷田貝
島 村 LT 松 本
北 村 LG 奥 域
福 田 C 笹 沼
長谷川 RG 藤 本
福 島 RT 持 田
山 田 RE 内 海
中 山 QB 中 島
野 内 LH 藤 沢
吉 本 RH 六 井
大 林 FB 小 野
交代

(早稲田):内藤、野村、青木、野内、岩本、下田、上野、村山

(法政):梅野、大村、橋本、竹中、鬼城

この試合は早稲田の一方的試合で法政はなすがままであつた。

 

ここでリーグ戰は前半の5試合を多摩川オリンピア球場の草野球場で草フットボールの様な試合を消化したのである。後半の5試合は明治神宮外苑競技場を使用する予定であつたが、この競技場は大日本体育協会加盟団体以外が使用することは非常に困難であると共に、東京には設備のととのつた競技場は非常に数が少く、特に秋のシーズンには陸上競技、ラグビー、サッカー、ホッケー等目白押しに使用をねらつて居り仲々その内に割込んで良い日を取ると云うことは体協未加盟の新興スポーツ団体としては無理なことであつた。そこで東京学生米式蹴球聯盟の役員には非常に頭の良い人が多く居り、突飛なアイデアの持主が多かつたのか、或は困惑のはてに思いついたのか、とにかくそれ迄のアマチュア競技団体が考えても見ないことに気がついてそれを実行したのである。

 

それはプロ野球の殿堂として偉容を誇つていた後楽園の野球場を使用することである。それ迄の日本の競技団体では各々その競技場はその競技の目的の為に建設されたもので、それをそれ以外の目的に使用すること事体には考が及ばなかつたのである。即ち野球場は野球のために、そして競技場は陸上競技の為のものであり、その内のフィールドは陸上以外に球技にも使用出来る。プールは水泳の為と云ふように、それは既定概念がありそれ以外には考へられなかつたのである。ましてプロの殿堂をアマチュアが使用することなど全然考へても居なかつたことである。

 

プロ野球は大体10月一杯でシーズン・オフになつてしまうのでグラウンドは空くのである。そしてこの後楽園の野球場は出来てまだ3年位しか経過していないのも盲点になつていたのかも知れないが、とにかく他の団体も使用申込みがなく空いているのに吾が聯盟は目をつけてリーグ戰後半5試合の日程を後楽園野球場に組んだのである。

 

11月5日:慶応対立教、11月12日:明治対法政、11月20日:早稲田対慶応、11月21日:法政対立教、12月5日:早稲田対明治と決定した。尚、試合開始は午後2時半とし、多摩川オリンピアではどうしても出来なかつたリーグ戰の入場式を改めてこの素晴しいグラウンドが使用出来るようになつたので、この後楽園で行う第一試合の11月5日の慶立戰に先立つて行うことになつた。

 

当日11月5日は午後1時より明治、早稲田、法政、立教、慶応の順で当日試合のないチームもユニフォームを着用して校旗を先頭に後楽園球場で入場式を行つた。そして三塁側スタンドに正対し縦体に整列して、浅野新会長の挨拶等型通りの入場式を挙行して引続き2時30分から保科(主)、井上(副)、梶谷(線)、黒川(計)の審判で、立教対慶応の試合が慶応のキックオフで開始された。

 

この後楽園野球場の特設グラウンドはバックネットから左翼のスタンドに向い三塁線に沿つてサイドラインが引かれ、他のサイドラインはバックネットから中堅より右翼よりに引かれて居た。グラウンドは三塁側に面して居り、スタンドも三塁側の内野及び外野の一部のスタンドを使用し観衆を収容した。その為にエンドゾーンの一部が欠けては居たが多摩川とは比較にならなかつた。ただしバックネット寄りの40ヤード付近にピッチャーズマウンドが小髙くもり上がつて居て、知らないで走つて居るとつまづく様な感じがした。この日は三塁側のスタンドはほぼ満員の観衆を集めた。試合の結果は

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
立 教 0 0 0 0 0
慶 応 0 0 0 0 0
立 教 慶 応
上 田 LE 山 片
鈴 江 LT 加 藤
池 上 LG 根 木
服 部 C
RG 上 村
小 里 RT 今 村
亀 井 RE 稲 葉
鈴 木 QB 保 木
中 村 LH 田 村
細 田 RH 遠 見
安 藤 FB 片 岡
交代

(立教):浅賀、菊地、岸、島袋、竹内、松田、内藤

(慶応):富田、桑原、藤堂、松尾、下村、光吉、竹村、柳田

翌日の読売新聞には横尾記者が次の様に書いている。

 

「プレイグラウンドは野球のダイヤモンドを中心に左翼メインスタンド寄りサイドラインを引き、ゴールは一塁側、本塁近くと、左翼外野に設けられて見物には便利である。慶立戰は雨のため展開が鈍く双方得点に苦しむ有様だつたが、試合は総体に立教が圧迫勝でエース中村の左右ガード突破或はエンド迂回の突進は目覚しかつた」

 

とある。

 

この試合は慶応は法政に勝つているので立教に勝つて上位に進出すべく必勝の決意で望んで来ていた。試合開始直後降り出した雨はだんだんと激しくなり、スパイクには泥がついて走りにくくなり、防具、ユニフォームは雨にぬれて重くなつて動きにくくなつて、確かに両軍共動きが鈍くなつた。又フォワードパスは投げる方も、捕球する方も手がすべつてミスが多いのでどうしてもラインの中央を突くより他に手のない有様であつた。

 

センターもボールをスナップするのに手が滑りコントロールが悪くなるのだが、手を拭く場所もない位体全体が濡れてしまつたものである。それでも試合は全般的に立教が押し気味に進められたが、得点をすることが出来なく、第四クォーターに入り立教は総力を挙げて攻撃し慶応をしばしばゴール直前迄押し込んだがフアンブルや雨の為に滑つてチャンスを得点に結び付けることが出来ず遂に0対0の引分けに終わつた。

 

試合が終りスタンドの下の控室で雨に濡れたそして泥まみれになつた重いユニフォームを脱いで風呂に入つたが、後楽園の風呂は小さくて多人数が一度に入浴することが出来ず待つて居るのに11月の夕方の気温の寒さにふるえ上がつた。そして入浴後道具を整理してバッグに入れて持つたらその重いのに驚いた。よくもこんな重いものを着て走り回つていたものだと感心したのであつた。

 

11月12日は同後楽園野球場で午後2時30分からファーラー(主)、中谷(副)、井上(線)、下田(計)の審判で、明治対法政の試合が明治のキックオフで行われた。結果は次の通りであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 14 0 21 20 55
法 政 0 0 6 0 6
明 治 法 政
富 山 LE 谷田貝
近 見 LT 大 村
松 本 LG 鬼 城
坂 本 C 持 田
竹 下 RG 藤 本
渡 辺 RT 間 宮
町 田 RE 内 海
QB 三 枝
胡 子 LH 藤 沢
横 山 RH 六 井
藤 家 FB 小 野
交代

(明治):清水、黒川、原田、椙村、保田、谷、布田、髙本、浜崎、国重

(法政):竹中、橋本、海野、笹沼

明治の一方的試合で明治の思ふようにトリックにパスに或はランと、やること全部が成功し、法政には全々良い処がなかつた。

 

11月14日は立教が横浜YCACに出向いて立教対YCACの試合を行つた。結果は次の通りであつた。

 

立教 21-0 YCAC

 

この試合では体格の大きいYCACに対してリーグ中でも小柄な立教が押しまくつて快勝したのである。さすがに重量のある外人ラインに突破口を開けるのには骨が折れたが、それでも若さの力で重量差をはねのけたのである。

 

YCACのハーフバックのバッキー・ハリスは小柄ではあつたが重量とその馬力には立教も悩まされた。この人は終戰後NHKに努めた人であつて終戰後のフットボール復活にも尽力をしてくれた人であつて、終戰後は杉山ハリスと云つて居り、日本語の非常に達者な人で、この試合でも立教の金子が試合中にバッキーをタックルしそこなつて大きな声で「コノヤロー」と云つたら「このやろうとは何だ」と日本語で食つてかかつて来た程であつた。

 

YCACのラインには酒を飲んでプレイをしている者もあつて、スクリメージでその人の前に居る立教のプレイヤーは酒臭い息を吹きかけられて弱つていた。然しとにかく一方的な快勝を挙げYCACのシャワーを浴びて綺麗なロビーで試合後の交歓会をビールとサンドウィッチ等で行つた。YCACに試合に行くのはこの交歓会も一つの大きな楽しみでもあつたので、皆多いに食つて意気揚々と横浜を引き上げたのである。

 

この頃甲子園南球場では明治と神戸外人との試合があつて神戸外人が19対12で明治に勝つた。

11月20日の朝日新聞には加納氏記の予想が大きく出ている。

「学生米式蹴球 けふあすの二試合、早大牙城に迫る躍進慶大軍の斗志」と云う見出しで以下七段に亘つて書いている。即ち

 

「東京学生米式蹴球リーグ戰も、残すところ早慶、法立、早明の三試合となり、20日には早慶、21日には法立と続けざまに後楽園スタディアムで挙行されるが、早慶戰では今シーズン慶応が過去2シーズンの沈滞を破つて異常な躍進を遂げたことによつて、明大と共に優勝候補としてリーグの双璧をなしてゐる早大の牙城に迫る迫撃戰に大きな魅力を感じさせ、法立戰ではシーズン中ばでやや不消化を起こしてゐる立大の虚を突いて立ち上つた法大背水の陣にこれ又早慶戰に劣らぬ興味をひかれる。

 

早慶戰-早大は今シーズン新たに20余名の新人を加へ試合場では40名に余る選手を自由に交替し、試合時間中疲労を知らぬ戰斗力を示してゐる。早大会心のラインナップとしてはセンターに福田君、ガードに最近進境の目覚しい藤岡君、精悍なタックルを行う青木君、又稍々小柄ではあるが斗志の甚だ旺盛な北村君等タックルには島村、福島両君、エンドには選手兼コーチの下田君、巨体を躍らして無敵のタックルを試みる野村君、フォワードパスの受け手としてチームの信頼を得てゐる村山君といふライン。

 

バックメンではセンターから後衛陣にそれもクォーターバックの重責を負はされた中山君、巧みなブロッキングを持つ野内君、野口君、それに吉本君を加へ、突進力の優秀さと常に冷静を保つて凡ゆる場面に応じて縦横に攻撃法を適切に選択してゆく大林主将等をバックに持ち、フルバックには長蹴者としてリーグ中でも主位を爭う内藤君といふ顔触れである。

 

これに対して慶大は3年来殆ど異動を見ぬメンバーで、ラインはセンター桂、ガード上村、根木、タックル今村、加藤、エンド山片、稲葉の諸君、バックフィールドには突進力の優秀な片岡主将をフルバックに藤堂、桑原、田村、遠見君等のハーフ、クォーターバックには保木、桑原の両君が主戰斗士であつて、今シーズンは第一戰に明大に敗退したが続いて法大を破り、早明に次ぐ実力と見られてゐる立大に対して一歩もゆずらず、引分けの熱戰を演じてゐる。

 

この慶大躍進の主な動力はどこから火ぶたを切られたかといふと慶大は昨シーズンも、亦一昨年もバックスには相当の突進力を持つてゐたがラインメンに脆弱なところがあつて作戰通りの攻法に支障を来たすことがしばしばあつた。この弱点が今シーズンに入つてラインメンの必死の努力で一戰毎に堅実味を増して最近ではリーグの上位チームをも警戒させるやうになつて来たのであつた。

 

この躍進の慶大が独特の雰囲気をかもし出す早慶戰の名の下に従来にない充実した実力のを持つて突撃して行かうと云ふから意気においては早大に一歩もゆずらぬ軒昂さを示してゐるといへる。果して慶大が頼みとするラインメンが強敵早大のラインを圧へてバックに好個の突進路を開くことが出来るか、早大の老巧さが慶大斗志の出鼻を叩いて乗ずるすきを与へずに押切るか、この一戰は両者の技量を超越した対抗意識が意外な結果をもたらす場合があると予想されるので早慶各々の実力を知るものには亦別な興味が湧かうといふものである。

 

法立戰-法大は去る12日対明大戰で前半接戰を演じてゐながらメンバーの不足は後半戰の疲労を救ふべくもなく堤の崩壊するやうな敗北を喫したが、この対立大戰が今期最後の試合でもあり、負傷者の恢復によつてチームの内容も従前通りに復したので三枝-内藤両君のフォワードパス、小野、六井、大村君等の巧走によつて立大陣を脅やかすであらう。

 

立大は慶大と思はぬ引分けを演じ自身としても意外の感に打たれたことであらうが比校もこの試合をもつて今期の幕を閉ぢることになるのでこの一戰は是が非でも勝たないことには全敗一引分けの惨たる記録を止めることになる。いずれにしてもこの試合を失へばリーグ最下位という芳ばしからぬ位置に甘んずる結果となるので一勝を狙ふ両チームの意気は必然的に髙調され、その上技術的には相当優れてゐる両チームのことであるから大胆な攻法の応酬で試合ははなやかに展開されるだらうと期待される。」

 

と云う長文の予想記事が大きく掲載されて読者の期待と興味をさそい、気分を盛り上げていた。

11月20日午後2時30分から後楽園野球場でファーラー(主)、松本(副)、梶谷(線)、安藤(計)の審判で早慶戰が行はれた。結果は

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 13 12 6 12 43
慶 応 0 0 0 0 0
早稲田 慶 応
野 村 LE 稲 葉
島 村 LT 加 藤
藤 岡 LG 福 田
福 田 C 光 吉
青 木 RG 富 田
西 岡 RT 浄 土
村 山 RE 田 沢
中 山 QB 保 木
内 藤 LH 田 村
吉 本 RH 遠 見
大 林 FB 片 岡
交代

(早稲田):野口、福島、山口、山田、野内、北村、上野

(慶応):竹村、藤堂、桑原、山片、今村、上村、根木、渡辺、吉田、緒方、遠見

翌日の朝日新聞には「小春日和の暖かさに恵まれ観衆はタッチに沿ふスタンドを埋めつくし盛観であつた。」と書き出して居るが本当によく入つて後楽園野球場の三塁側スタンドは一杯になつた。一万近くの観衆が入つたのではなかろうか。さすがは早慶戰であると思はせた。或は先日の朝日の予想で接戰を期待して来たのかも知れないが、試合の方は早稲田が一方的であつて慶応は良い所が少しもなく早稲田は思うように気持よく試合を運んだ。

 

読売の記事には「技術的には格段の差あり早大はダブルリバースパスの如き幻惑戰術で慶応を撹乱、大林主将の馬力、野口の俊足で着々得点を重さね健脚の慶応を零封に封じた」と書いて居る。確かに格段の差があつた。大林は国産選手であつたが体格も良く中央突破はよく成功していたがこれ迄の試合には余り出て来なかつた。然しこの試合で一挙に押し上がつて来たのである。

 

この同じ11月20日には甲子園南運動場で神戸外人(KRCA)と東京から遠征した明治大学とが試合をしている。その結果は

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
神戸外人 0 0 13 6 19
明 治 6 6 0 0 12

で明治が敗れたのである。明治は遊び半分の試合をしたのではなかろうか。それでなければ関東の勇者がこんな敗れ方はする筈がないと思はれる。

 

11月21日午後2時30分から後楽園野球場で中本(主)、松本(副)、井上(線)、下田(計)審判で立教対法政の試合が行われた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
立 教 7 6 14 0 27
法 政 0 0 0 6 6
立 教 法 政
内 藤 LE 内 海
鈴 江 LT 笹 沼
池 上 LG 大 村
C 持 田
松 田 RG 藤 本
RT 橋 本
亀 井 RE 谷田貝
細 田 QB 三 枝
中 村 LH 藤 沢
栗 林 RH 六 井
浅 賀 FB 小 野
交代

(立教):金子、竹内、安藤、小黒、服部、岸、菊地、鈴木、上田

(法政):中上、中島、奥城、杉本、間宮、梅野、

翌日の朝日新聞には

 

「立大は開始後ラインを突きダウンを更新すること四回、右タッチ11ヤードに進み第四ダウン目、中村、亀井のフォワードパス成つて左隅にタッチダウン、細田のセンター突破で1点を加へ、その後も法政の交代選手少なくラインメンが疲労して来るにつれてライン突破に功を奏し攻撃をつづけてゐたが、法政も第四クォーター立大がメンバーを替へて第一線選手が休養している間に続けて4回、藤沢の長駆を織り込んで立陣中央ゴール前6ヤードに迫り、藤沢のライン直破で遂にタッチダウン成り、その後優勢に立陣を脅やかしたが時間なく敗退した」

 

と書いている。

 

この試合、立教としては最後の試合であり、法政には勝てる自信もあつたので、来年に備えて新人をスターティングラインナップに入れてスタートしたのであつたが、試合開始直後直ちに一軍に編成替をした。非常に楽な試合であつた。ラインの中央が弱かつた。特に左が弱くセンターの私と右ガードの栄とのコンビネーションも最髙であつたのか、私がスナップバックをして栄と肩を合わせてダッシュして、法政のセンター、或は左ガードを狭んで首で押え付け2人の肩の上に乗せて10ヤードから15ヤード前進すると大きな穴が開き、その後をフルバック浅賀がボールを持つて私と栄の後からついて来れば一気に10ヤード位前進出来ると云うように、面白位にボールを前進させることが出来た。

 

従つてこの試合は中央突破のくり返えしだけで充分であつた。最後の第4クォーターには又来年に備えて殆ど新人を出して試合を続けたらさすがに法政である。今度は逆に聯続ダウンを更新して得点を得て零敗はまぬがれたが、今シーズン立教は最後の試合を快勝で飾り慶応と共に3位になつた。この試合で法政の内海は鼻に黒いカラス天狗のようなマスクをして出場した。これはその前の試合で彼は鼻の骨を骨折したので鼻の保護の為に特別製のプラスティックで作つたマスクをして出場したのであつた。その当時には現今のようなノーズガードは誰も使用していなかつたので鼻の骨を折つたのであり又そのような特殊なマスクを使用していたのである。

 

11月25日のアメリカ感謝祭の日に横浜の外人クラブYCACで慶応対YCACの試合が行われた。結果は次の通りである。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
YCAC 0 13 0 13 26
慶 応 0 0 7 0 7

12月4日にはシーズン最後の優勝戰の早明戰が行われた。その前に朝日新聞は大きく予想を加納氏の記事で出している。

 

「2ヶ月に熱戰を経て東京米式蹴球リーグ戰も来る4日無敗同士の早明が今シーズンの覇権を賭けて後楽園スタディアムに相会することとなつた。昨シーズンは明大と早大が同じく最優の成績で爭覇戰に登場したのだつたが、明大の無敗に対して早大は学期試験後の練習不足が大きな影響ともなつて法大に13対7と不覚の一敗を喫してしまつた。

が併し、この意外の敗北に気分を引締めた早大は対明大戰の折のチームの面貌を一変した如く、全身に斗志を漲らして試合の頭初から明大の巧緻なプレイを圧へてラインを強襲し早大の得意とする力の進撃を水ももらさぬ正確さで敢行して7対0、1タッチダウンの得点を死守し通して遂に明大の猛攻を退けたのであつた。

 

今シーズンは早明共に慶法立の3チームを大差に退けて余裕綽々たる完璧の姿を共に決勝の舞台に登せることとなつたのであるが、今シーズンの双璧早明の戰法は昨年に引続いて各自が信奉する形式を継承してゆずらず、早大がラインの左右両翼へ球を持つセンターを中心に平均した人員を配置してバックフィールドのみノートルダム大学の形式を採つて一方へ4名を雁行させる所謂シングルウイングの形をとつてゐるのに対して明大はスタンフォード大学の戰法に則つてラインは球を持つセンターを中心に一方へ人員を片寄せて配置し、バックフィールドは4名のうち2名をラインの両端後方に恰も両翼を張り広げた如く置くダブルウイングの戰法をとつてゐる。

かくの如く両チームが各々戰法を異にするに至つた理由としては各々チームの人的要素の要求に従つて相反するやうになつたものでこの両戰法には特長として挙げ得る幾多の相違点がある。

 

早大の採用してゐるシングルウイングは球を持つて前進する者がラインの開いた突進路に突撃する場合、ラインメン以外に前方に控えた味方のバックメンによつて尚一層確実な進路を押し開くことが出来るし又ラインメンが完全な進路を作り得た場合には球を持つて進む味方のバックメンがラインを突破する以前に前方のバックメン2人はその進路を通過して、なお其後に迫る相手側バックメンの防御を排除することが出来て確実に所期の目的を達することが出来る。

 

一方明大の採るダブルウイングの戰法によればウイングとしてラインの背後両翼に出ているバックメンとセンターから球を受けたバックマンとの間にこの三者がスクリメージ後方で織り重さなるやうな行動によつて凡ゆる変化に富んだトリックプレーが生まれて来る。

 

早大がシングルウイングを採用してゐる理由としては以上の戰法を活かす為必要な強力ラインと強引の利くバックメンを持つてゐるからであつて、又明大がダブルウイング戰法を用いてゐる理由はトリックプレーに適した敏活なバックメンを有してゐるからである。

 

さてこのような人的要素の相違から出来上がつた二つの特長のある早明を相対的に検討して見ると、明大は早大に比してラインが優勢でないことは否めぬ事実である。従つてトリックプレーによつてラインを襲撃することは、バックメンが後方でトリックを用ひるだけラインに到達する迄に余計に時間を要することになるので、早大ラインメンを明大側が一時耐えることが出来て突進路を開くことが出来てゐても、早大側に直ちに立直られる惧れがありトリックプレーによるライン突破には相当の不安がある。早大の強引の利くバックスは重量もあり又強力なラインメンの活躍によつてよく突進路を進むことが出来るとしても、フォワードパス、或はエンドランには敏活な明大バックスメンによつてその進撃を遮断される場合が多からう。

 

結局早大はラインで活躍する福田センター、野村、下田の両エンドの鋭い出足によつて明大の攻撃をスクリメージラインの後方に圧し、味方の攻撃にあたつては藤岡タックル、西岡ガード、又は島村タックル、上野ガードの開くラインの突破路にボールキャリヤーはバックメンの協力を得て漸進することに生命があり、野村、下田、村山各エンドに投ずる野内のフォワードパスに明大の虚を衝くこととならうが、明大は早大の強力なラインに対しては突進路の開拓に困難があると同時にトリックプレーによる時間の空費はより以上ラインの突破に蹉跌を来たすこととなるので或はトリックプレーを排してラインメンが開いた進路に間髪を入れず突入する方法によるとも考へられるが国重、畑、胡子、藤家君等の敏活駿足をかつて敢然エンドランのオープン戰に挑むこととならうし、胡子君の好投を受ける椙村君の活躍、又畑、安田両君の援護によつてエンドランの長駆も狙ふ国重君の腰の強い走法も早大の警戒を要するところであろう。

 

かく技術の明大、力の早大と判然とした対立のうちに今シーズンの覇権を爭ふこととなつたのであるがこの爭覇戰こそ本家のアメリカにおける代表的蹴球戰にも劣らぬ技術と熱のある試合が展開されるものと期待される。」

 

と云ふ長文のものであつた。

 

事実ラインの早大に対してバックの明大であり体重も平均約4Kg早大の方が大きかつたのである。そしてその年は各チーム共アンバランスラインのシングルウイングバックフォーメーションを採用して居り防御は6人ラインが多かつた。

 

12月4日午後2時30分から後楽園野球場内の特設グラウンドにおいてファウラー(主)、坂口(副)、梶谷(線)、安藤(計)の審判の下に、明治の先蹴でリーグ戰の最終試合である明治対早稲田の試合は、その年の覇権を賭けて挙行された。この日は前の早慶戰の時以上の入場者があり三塁側スタンドからレフトの外野席の方まで一杯に入場し、その数は一万人位であつた。結果は次の通りである。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 0 7 0 19 26
明 治 0 6 0 0 6
早稲田 明 治
野 村 LE 椙 村
島 村 LT
藤 岡 LG 黒 川
福 田 C 坂 本
福 島 RG 竹 下
西 岡 RT 石 橋
村 上 RE 町 田
中 山 QB
野 内 LH 保 田
吉 本 RH 国 重
大 林 FB 胡 子
交代

(早稲田):内藤、野口、山田、北村、上野、下田

(明治):渡辺、浜崎、横山、清水、檜本、藤家、原田、花園

試合の結果は26対6と早稲田の一方的のようであるが、点が開いたのは最終クォータであつて、それ迄は優勝決定戰にふさわしい大接戰であつた。本当に最後の5分迄勝敗の帰趨がわからない好試合であつた。明治は試合開始直後、自陣36ヤードから国重が右エンドランで65ヤード長駆してタッチダウンを挙げたかと思われたが、明治にクリッピングの反則があつて得点にならず。

 

その後も明治優勢に試合を続け、第2クォーター5分には明治は早大陣5ヤードに迫り、早稲田の野内がパントをする処を明治のラインが飛込んでパントブロックをして、エンドゾーンに転々とする処を明治・畑おさえて最初のタッチダウンを挙げたが、その後早稲田の奮起して13分明治陣2ヤードから攻撃し、内藤飛込んでタッチダウン、トライフォアポイントも成り、早稲田1点をリードし前半を終りった。

 

後半第3クォーターは両軍一進一退を続け第4クォーターに入り10分頃迄は一進一退の熱戰を続けたが、だんだん軽量の明治ラインに疲労が現われ、10分には明治5ヤードから早稲田・野口のタッチダウン。続いてその直後早稲田・下田が明治のフォワードパスをインターセプトし50ヤード独走してタッチダウン、更に14分には早稲田、又明治のフォワードパスを福田がインターセプトし60ヤード独走でタッチダウンを挙げ、試合は最後の5分であつけなく勝敗が定つた。

 

結論として早稲田の強力な重量ラインが明治のラインに体力で勝ち、明治のラインもよく頑張つたが、最後に力盡きて惜敗したのである。

 

この結果その年のリーグ戰の成績は優勝早稲田(4勝)、第二位明治(3勝1敗)、第三位立教、慶応(1勝2敗1分)、第四位法政(全敗)と云う順位で早稲田はリーグ戰開始以来4年目に単独優勝をはたしたのである。

 

こうして昭和12年度のリーグ戰も無事終了し、その後東京学生米式蹴球聯盟審判協会委員長のファウラー氏はその年のオールスターズ第1軍及び第2軍を12月5日発表し、各新聞は一斉にのせた。

第1軍 第2軍
内藤 幸男(早) FB 大林 卯一(早)
国重 竹雄(明) HB 藤家 一(明)
中村 健一(立) HB 胡子 次郎(明)
畑 弘(明) QB 野内 平市(早)
町田 整治(明) RE 野村 武雄(早)
西岡 敏男(早) RT 小黒 博(立)
黒川 博人(明) RG 根木 浩(慶)
坂本 三郎(明) C 福田 勝人(早)
上野 遣司(早) LG 藤岡 進(早)
野村 利雄(早) LT 今村 得司(慶)
下田 正一(早) LE 椙村 覚(明)

こうして昭和12年は無事終了したのであるが、日支事変は益々拡大して行き上海から戰局は大きく伸びて12月には日本軍は南京を攻撃して南京入城となり、日本全国は大いにわき各都市で提灯行列を行つて戰勝を祝う等、日本全国は軍国色一色につぶされて行つた。

 

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