◆ 1938(昭和13年) ◆
そして昭和13年を迎えたのである。吾々フットボールの先輩聯中も現役兵或は予備役兵として徴集されて続々と中国大陸の野戰にかり出されて行つた。この様なあわただしい新年を迎え益々諸事が困難になつて来た。
然し昭和13年1月初旬のスポーツ新聞のスポーツ欄にはその年のローズボウルゲームの記事が出ていた。この年はカリフォルニア大学はH.Bのポッタリの大活躍によりアラバマ大学を13対0で敗り、カリフォルニア大学が快勝したと報じている。又アメリカの聯合通信社発表の1937年度のスポーツ10傑の記事ものせていた。それによれば第1位は庭球のドンソバッヂで、第4位にエール大学フットボールのHBフランク、第5位にコロラド大学のバックホワイト、第10位にフットボールのピッツバーグ大学のゴールドバークが選ばれ、チーム花形10傑には、第1位野球ヤンキーズ、第2位にフットボール、ピッツバーグ大学、第6位プロフットボールのレッドスキン、第6位はアラバマ大学、ミネソタ大学、カリフォルニア大学とフットボールの3大学が、そして第8位にフォーダム大学とプロのシカゴベアーズが選ばれていた。
又番狂せ10傑の第1位は拳斗のファー対ルーイスで、第2位にビッグテンのミネソタ大学がネブラスカ大学に敗北したこと、第4位にエール大学がハーバード大学に負けたこと、第6位ラフェット大学の活躍、第7位プロフットボールでワシントンが巨人に勝つたこと等が出ている。まだまだアメリカは全くのんびりしたものであつた。
1月22日には立教対関大の試合が甲子園南運動場で午後2時半から行はれた。その結果は
この試合は不本意ながら引分けに終わつてしまつた。それと云うのもこの試合を予定したのは前年の12月の初めのシーズンを終つた直後であつた。そしてその時点においては前年と同様に朝日新聞社が後援をしてくれて、遠征チーム即ち立教の旅費宿泊費を負担してくれることを加納氏を通じて内諾を得て居たつもりであつた。それでシーズン終了時にはその旨を部員につげて、納会を終わり、翌昭和13年の1月15日頃から対関大定期戰の練習に入る予定であつたのだが、1月中旬頃再度朝日新聞に確かめた処、朝日は後援はするが諸経費は出さないと云う返答であつた。
それでは全く吾々の予定していた條件と違い又その費用を部員個人負担にすることも出来ないので不本意ながら本年は中止するより他に方法がなかつた。尚、朝日とはその後も交渉を続けたが、色好い返事はもらえなかつた。それで関大の方に事情を説明して中止することにして練習も取止めにしてしまつたのである。
そうしたら20日近くになつてから朝日から半額だけは出そうと云うことになり、試合をやらなければ関大の方で困ると云うことで急に試合再開に決定したいきさつがあつた。それやこれやで練習は殆どやらないで関西に行つて試合を挙行したのである。リーグ戰終了後約2カ月全々ボールにふれていないのでは勝てるわけがない。それでも良く1タッチダウンは取れたものだと思ふ。
試合が終つて南甲子園ホテルで夕食し、その夜は門限11時にして各自大阪の町に出かけた。夜11時迄には皆帰つて来たが、唯一人フレッシュマンの鄭だけが帰つて来ない。12時になつても帰らないので幹部聯中は心配して起きて待つていた所、午前3時頃になつてやつと帰つて来た。よく聞くと間違えて阪神電車を一つ手前の尼崎で下車してしまつたそうで、終電車も逃がしてしまい、阪神国道を夜中歩いて甲子園迄来たと云うのである。一同安心すると同時に大笑いになり、それ以後、鄭のことを迷い子と名付することになつた。
◆ 1938(昭和13年)日本協会設立 ◆
この頃から東京学生米式蹴球聯盟と関西大学との間に日本協会設立の件が具体化して来たのである。そして昭和13年1月末に日本米式蹴球協会が設立され、会長に東京学生米式蹴球聯盟の会長浅野良三氏が就任したのである。理事長にはポール・ラッシュ氏が兼任した。
この日本協会設立の第一の仕事として東西対抗戰を行ふことになつた。東京は良いとしても関西は学生はチームは関大だけであるので、学生だけの試合は出来ないので、YCAC、KRAC等その他OBも加えた東西対抗戰となり、第一回東西対抗戰はアメリカのボールゲームと同様1月1日行ふのであるが、第一回に限つて3月21日の春季皇霊祭の日に東京の明治神宮外苑競技場で行ふことになつた。そしてこれも朝日新聞社後援であつた。
関東軍は東京学生米式蹴球聯盟の昨年度のオールスターズを中心にし、それにYCACのメンバーを加えたチームを編成し、関西軍は関西只一の学生チームの関大とKRCAとの混成チームであつた。この日の入場料は指定席券1円、一般席50銭ときめられた。又この日の前座試合として東京学生米式蹴球聯盟加盟校の予科生聯合チームとOBクラブの対抗戰が行われた。このOBチームにはフットボールのOBは勿論であるが、その他明治の鳥羽、笠原等の当時ラグビー界で人気のあつた選手も参加した。
3月21日午後2時40分から明治神宮外苑競技場において第一回東西選抜対抗試合が挙行された。東西選抜対抗戰が正式な名称であつて、又別名東西オールスターズ対抗戰とも云つた。3月21日当日は風は強かつたが晴天に恵まれ、その上に祭日とあつてスタンドは一杯にあり、芝生のスタンドも両翼を除いてほゞ一杯の観衆が入つた。約2万人の観衆を集めて大成功であつた。この東西対抗戰の前に予科軍とOB軍の試合があつた。
3月21日午後1時明治神宮外苑競技場、花岡(主)、中山(副)、坂口(計)、菊地(線)で予科チーム先蹴で開始された。
以上のメンバーでフットボール以外のメンバーが相当入つている。
伊集院は毎日新聞の記者であり明治在学中は陸上競技、角力、ラグビーと万能選手であつた。又岩下は同じく毎日新聞の運動記者で慶応のラグビー名選手、御牧は東京新聞社のスポーツライターで立教ラグビー黄金時代の名選手、三浦も立教のラグビーで電報通信社の記者である。
更に鳥羽、笠原は当時明治のラグビーにあつてTBとFBの名手で二人共不出卋と云はれる位の名手であつた。このように新聞社の運動部の特にラグビー担当記者はフットボールをやつて見たくてウズウズしていた聯中が参加したのである。このような試合に参加させることによつて各自の新聞の記者もくわしく書いてくれるので協会としては大いに歓迎するところであつた。試合はさすが明治の駿足TBの鳥羽がラグビーのスリークォーターバックのパスによつてサイドラインを走つてタッチダウンをしたのであつた。そしてOB軍は予科選抜軍に1タッチダウンの差で勝つた。そしてO.B軍は大嬉びであつた。
引続いて第一回東西オールスターズ戰が挙行された。それに先立つて日本米式蹴球協会々長浅野良三氏の挨拶があり、浅野氏の始球式に引続いてファウラー(主)、松本(副)、梶谷(計)、井上(線)の審判で関東のキックオフで試合が2時40分開始された。
試合そのものは得点差以上に東軍の一方的な試合であつた。この試合で第2クォーターの得点は中村(立)の一人舞台でTDを挙げ、続くトライフォアポイントは中村のドロップゴールで得点をした。トライフォアポイントをドロップキックで挙げたのは中村一人で、それ迄もそれ以後も無かつた。
試合の内容は関東側の一方的で面白味は少なかつたが、これによつて関西側にとつては大変良い刺激となった。今迄関西大学には公式の試合は少なかつた。関東からの遠征したチームの試合は何れも練習試合のようなものであったが、それが日本協会主催の公式試合に出場出来ると云う大きな希望がもたれて、関西のチームとしては大変張り合いが出来たのである。そしてこの東西対抗は毎年一月一日に挙行することになつた。一月一日は毎年慶応と京大の試合が挙行されるが、これは東京と関西で毎年交互に行はれるので、フットボールの東西対抗はラグビーの慶京戰と反対に関西と東京で行うことになり、さし当たつて来年は1月1日に明治神宮外苑競技場で行うことが決定したのである。
此の試合をもつて正式に昭和12年度のシーズンは終了したのである。昭和12年度はフットボールは又大きく飛躍した年であつたと云える。即ちアメリカ遠征より帰り各チーム共技術的に大きく飛躍したし、又東西対抗と云うビッグゲームが出来た事等によつて、一般にアメリカンフットボール或は米式蹴球と云うものが大きく理解されて来たのである。
従つて見物客の数も随分と多くなつて来たのであるが、それに反して社会情勢は益々厳しくなつて来た。日支事変は当初の不拡大方針に反して益々拡大して行き中国大陸に日本の陸軍はドンドン進撃して行く。それにつれて毎日のように駅頭には出征兵士を見送る団体が見られるようになつた。卋の中がこのようになると何時の卋でも同じであるが、このような時勢の尻馬に乘る者が居るもので、それらの者が今迄は口にもしなかつたような立派なことを云つたり、行つたりして自己の保身の術を考え出して極端な行動に出て来た。
即ち神国日本とか、他に比類のない立派な国であるとか、それがどんな結果になるか考えるより先に、軍のお先棒をかついで、権力者にあまね自らも権力者の一端に加わり自己保身を計ろうとするのである。この様な者が多くなつて吾国全体に変なムードに傾いて行き、国粋主義的な風潮が昂まつて来た。国粋主義的な傾向が昂まつて来るとどうしても外来のものは目の仇にされるようになつて来るのである。その点でフットボールにも色々と風当たりが強くなる傾向が見えて来た。折角これ迄になつて来た吾々のフットボールを益々発展させる任務のある吾々には気が気でなくなつて来た。
それで昨年の春、即ち昭和12年の春から立教大学米式蹴球部はフットボールの校内大会を行つた。これは校内にポスターを出して参加チームを募集して行うものであつた。そして道具は貸してやるのである。又コーチを希望するチームには部員をコーチとして差し向けたのである。第一回の応募チームは意外に多かつた。角力部、ラグビー部、ホッケー部、サッカー部だとか全部で8チーム程集つた。それでコーチに部員を派遣してフォーメーションからルールの解説等を行つて、石神井のグラウンドで校内大会を挙行した。第一回の優勝はたしか角力部であつたと思う。
それで優勝チームには優勝のバックルを全員に贈呈した。これは部が体育会の年度予算が未だに年間30円しか呉れない部外団体であつたが、毎年体育会の正式な部に認めてもらおうとしても仲々認可してくれないので、一つには時節柄も考えてP.Rを兼ねたものであつた。何しろ年間30円の予算と部員から集める一円の部費とでは玉沢の借金もとても拂えるものではなかつた。昭和12年の春にはアメリカ遠征チームがハワイで行つた試合の入場料の収入を各チームに分けてくれたので大いに助かつたが、それがなければ苦しい処であつた。
この校内大会は大変評判がよく、参加各チームからは毎年やつてくれと云う要望があつたが、体育会の正式な部として認めることはこれとは関係ないと云はれたが、然しこの校内大会によつて良い印象を植えつけたことは確実であり、このようなことを毎年行ことによつて近い将来は吾々の希望もかなえられるものと思つて毎年続けることにしたのである。
◆ 1938(昭和13年)春 ◆
昭和13年の行事は3月の新入部員獲得のことから始まつた。例年の通り入学試験の日には全員学校に行つて体格の良い受験生を見付けて入部をすすめ、その名簿を作り発表の日には又発表を見に行き入学者を確認し、4月の入学時には又新しく入つた新入生の中で他の部に所属しない者の内で体格の良いのをさがして入部をすすめると云う大変手数のかかるものであつた。特にこの年は3月末には東西対抗の第一回戰と重なつて現役は大変忙しい思いをしたのである。
又一方では此の年の3月には各校共大量の卒業生を送り出した。この卒業生は殆どフットボールが日本に移入された当時からのプレイヤーであつて日本のフットボールの草分けとしての功労は大きいのである。
先づ立教大学からはアメリカ遠征に行つた安藤眉男、バックの菊地隆吾、浅賀隆義、エンドの亀井勇、ガードの栄実等であり、
早稲田では下田、大林、村山、野村、内藤、野内等、
明治では畑(弘)、黒崎、富永、山田、子胡、椙村、町田、伴、の多数であり、
慶応からは片岡、今村、保木、松井、上村、桂、加藤、稲葉で
法政からは大村、三枝、梅野、間宮、内海、保科
と一挙に多数のプレイヤーが卒業して行き各校ともにチームの再編成には大変苦心をした。そして、これらの補充をしなければならず、新入部員の獲得に一生懸命に努めたが仲々思うようには入部希望者がなかつた。特に立教のように全学生1,200人位の小人数では新入部員の獲得には骨が折れた。然し新入部員を獲得しない事にはチームの運営が出来ない。特に本年の卒業生はチームの中堅として活躍した者許りであり、ベンチウォーマーは一人も居ない5人であるのでこれの卒業の補充には並大抵のことでは出来ないので、現役の聯中はあらゆる方法で新入部員獲得に奔走した。
それで昨年一年休部をしていたハワイ大学卒業者で学部3年の坂口を説得して、再入部してもらい坂口にコーチを委任した。その他在学生中の勧誘ををしたり、又東西対抗で忙しい中を入学試験の日に現役全員手分けして受験生を勧誘して入部を予約させたり、又入学式の日にも新入学生を勧誘して、それでも在学生の永井三郎、それに新入生では広澤得郎、小池貞二、山田隆太郎、立川明教、芹澤利一、横山欽一の7名を得、部の人員は26名と一応は揃つたが実力的には昨年度より数段と低下するすることは止むを得なかつた。そしてこの人数をもつて石神井公園の清水組のグラウンドで春のプラクティスシーズンを4月末日から行つた。
毎年のことであるが5月頃になると体育会の予算期になるのである。フットボール部はもう誕生してから5年目になるのにまだ体育会の正式な部としては認められておらず、部外団体として予算も30円しかもらつていなかつた。年間30円ではいくら何でもやつて行けない。部員から月50銭の部費を集めても出来ない。ましてフットボールには用具が必要であり、その用具の補充もして行かなければならない。ところが用具の購入先の玉澤運道具店には借金があり、それを返済しなければ用具購入も困難である。昨年のようにアメリカ遠征の帰りのハワイでの試合の入場料の利益を一校30円でも分配して呉れると云う思わぬ余得でもあれば良いのだがそれも望めない。
それで何とか正式に、体育会の部に認めてもらえば、年間100円以上の予算が学校からもらえるので、体育会の各部の髙学年の友人達に予算会議でフットボールを正式の部に認めるように頼んだのであるが、各部でも予算の全体の額が定められているのに各部共少しでも多く予算を取りたいのが実情で、そこへ新しく部を認めるとそれだけ予算全体から支出が多くなるので、新しい部の認可は極力押えるようになつていた。この年も色々と努力をしたが正式の部には認めてもらえなかつたが、昨年迄の実績を認めて年間予算として昨年より20円多い50円が認められたのであつた。
予算については毎年部の幹部は大変頭を痛める問題であつて、部員から集める部費を増額することはむずかしいし、試合の入場券の売上はまだ各校に分配する迄には達しない、用具購入の借金は増加する一方である。これは各校共同じ苦しみであつたろうが立教の様に全校の学生の少ない所では、尚その苦しみは多かつた。
それで各校共そうであつたが立教のフットボール部でも一昨年の昭和11年の12月に部の基金募集のために映画会を開催したことがあつた。昭和11年12月6日(金)午后6時から九段の軍人会館(現在の九段会館)で「カレッジ・リズムの夕べ」と云う会で、映画はパラマウントの「カレッジ・リズム」と云ふジャッキー・オーキー主演のフットボールの映画を上映し、その他灰田勝彦兄弟のヒロ・カレッジアン・セレナーダスのハワイ音楽淡谷のり子の歌と当時としては相当の内容であつた。観客も軍人会館一杯になつて盛大であつたが、色々の出費が多くて純利益はいくらもなく、僅かに玉沢運動具店の借金の一部を返済することが出来ただけであつた。
現在でもそうであるが、このスポーツが日本に入つて来てからまだ年月が経過していないので試合の見物の観衆も余り多くなく、又OBも少ない上にOBもまだ学生を卒業したばかりの者達ばかりで、従つて経済的にも後輩の面倒を見ることが出来るような者は居ないので部の経済的困窮は解つているがこれを救済する能力はない者達許りであるのでOBにタカル事も出来ず、結局部員同士で工夫をして何とかやつて行くより他には道がなかつた。野球部を除いては他の部も大なり小なり同じ様な状況ではあつたろうが、フットボール部は一番新しい上に道具に金がかかるので最も経済的には苦労の多い部であつたのである。
4月末から春のプラクティスシーズンが始り新入部員を加えて石神井公園の清水組のグラウンドで約1ヶ月間の練習を行つた。季候は良く順調にスケジュールも進んで法政とのスクリメージもやつたりして5月末日で終了した。後は9月からの合宿を待つてシーズンに入るのを待つのである。
然し卋の中は益々変化して行つた。昨昭和12年12月には日本軍は中支の南京を攻略しこれを占領し、日本全国は提灯行列で祝福をした。これで支那事変も一段落して決着を見るかと思はれたが、戰局は益々拡大し漢口攻撃へと進展して行き、街には毎日出征兵士を送る幟りと歌が流れて行つた。吾々フットボールの先輩でも、昨年大学を卒業した相京徹夫が四街道の陸軍飛行学校に幹部候補生として入校した。又中田文夫は近衛歩兵一聯隊に入営し、8月末日には井上和雄が広島の輌重歩兵第5聯隊に召集入営する等続々軍隊に入営して行つた。一方その当時の主将太田二男は卒業と同時に米国に帰へつた。今年卒業した聯中も続々と徴兵検査を受け殆どの者が甲種合格となつて、本年12月から来年の1月にかけて入営して行くことが確実になつた。
今年の最上級生も就職がきまり、来年入社すると同時に徴兵検査によつて軍務に服することは明らかである。皆の間では陸軍省への就職は確実だと冗談を云つて自らをなぐさめて居た。卋の中は非常時一色に塗りつぶされて軍国調になつて来た。学校でも教練の時間は厳確になつて他の授業はともかく教練の時間だけは全員が出席するという状態であつた。
6月も終わり7月に入り夏中休暇が近づいたある日、吾々のチームのスタープレーヤである中村健一が部を辞めると云い出した。色々と聞いて見ると家庭の事情でこの一学期が終ると同時に学校も辞めてハワイに帰ると云ふ。チームとしては大変な痛手ではあるがハワイに帰ると云ふのをとめることも出来ないので涙を呑むより仕方がなかつた。
各大学のチームを通じて最も優秀なプレーヤーで、パスを投げさせてよし走らせてよし、ディフェンスも良いが特に彼のキックは抜群のものがあり、東京学生米式蹴球聯盟の至宝である中村を失うことは立教のチームのみならず日本のフットボール界の大損失であるが止むを得ないことであつた。立教のチームも今年は坂口の復活を見て中村・坂口のコンビで大いに躍進を期待していたのであるが、逆に戰力としてはマイナスの面が出て来て困難な状態におかれることになつてしまつた。
6月に私は1人で沓掛の星野温泉に行き9月からの合宿の打ち合わせ予約をして来た。毎年行つているので宿の人も皆喜んでくれた。7月に入り夏期休暇の始まる前にミーテイングを行つて合宿の件について伝達した。そして部員全員の各々各方面に散つて行つた。然し卋は非常時態勢で学生としても色々の制約を受けるようになつた。俗に云う学生狩り等もその一例であつた。学生狩りとは平日の午前中に喫茶店や映画館、マージャン屋その他の盛り場等に居るのが警官に見つかると警察に聯行されて、お説教を食うと云ふもので新聞にも毎日何人聯行されたとか云ふ記事が出ており、特くに早稲田署は東京で最も厳しい署であつた。
このように種々の制約下ではいくら夏休みだからと云つて思うまま気ままには仲々行動が出来ない。事実夏休み中に学校から全校生宛に文部省が出した訓示を送付してきた。それには未曾有の非常時に際して学生としての本分を忘れず、勉学と体育の訓練により体力を増強して非常時の役に立つように心掛けよと云うようなものであつた。このような状態であるので文部省では学生のスポーツの海外遠征を禁止すると云う告示も出した。
実はこれは一つの空想として吾々は去年位から考へていたことであるが、それは昨年アメリカ遠征に行つて帰つて来てから聯盟加盟の各チームにアメリカでの試合の入場料の利益が分配されたことにより立教單独のチームでアメリカに遠征して資金稼ぎをやろうかと云ふ事であつた。
船は貨物船を使つてハワイまで一チーム約千円位の旅費で良い、勿論片道である。そしてハワイで3試合位やればハワイの滞在費と帰りの船賃を支払つても3千円位の利益を挙げてそれを持つて帰れば部の資金も充分にうるおうと云ふ計画であつた。然しこれに行きの船賃の千円と云う大金を如何にして集めるかと云う大きな難問があつて夢物語ではあつたが、それも今度の文部大臣の告示によつて不可能になつてしまつた。そして学生は何所に行つても聞かされる出征兵士を送る歌のかげに小さくなつているより仕方がなかつた。
暑中休暇に毎年発行している夏期部報にも軍国調が明らかに出ている。小川部長の便りにも「・・・大学を通じて諸君の手許に達せられた文部省の訓示を更によく心して充分時局の重大性を認識し諸君の父兄、大学当局並びに国家が諸君に期待して居るものに副う生活を営まれんことを希望します」と書いてある。
又先輩OBの兵役の状況や徴兵検査の結果等も記載されている。又細田主将は「・・・今年は特に国民精神総動員実施中のことであり又聖戰2年目超重大な時局下にある折から・・・」等と皆時局の重大さをひしひしと感じて居たのである。
昭和13年度の夏期合宿は、8月31日から9月10日までの間、軽井沢沓掛の星野温泉明星館で行はれた。合宿費は三食付で22円、汽車賃は学割で片道1円75銭であつた。一昨年に比較すると諸物価髙騰し合宿日数を3日早く切り上げなければならないようになつた。
8月31日は午前8時に上野駅1,2等待合室に集合し8時30分発の列車で合宿地に向かつた。一同修学旅行のような和やかな気分で汽車の旅をし星野温泉に着いた。新入部員以外は聯続4年も来て居るので様子もわかつて居り、その日はゆつくりと休養した。翌日からは日課に従つて練習が開始された。合宿2日目から3日目は体が生つているので疲れが出て体の方々が痛く、宿舎の階段の上り降りも四ツンばいにならないと出来なかつたり、便所に行つてしやがむのが痛くて苦しかつたりするものであるが、それでも道具を着けてグラウンドに出るとシャンとして平常通り練習が出来るものである。
グラウンドは年々幾分かは良くなつて居るが、それでも例の火山礫の小さいのが一面にあつてすり傷がたえない。それでも順調に予定の日程を終り9月10日午後の汽車で沓掛を出発して上野に向つた。上野近くになり浦和をすぎ、蕨駅の近くに来ると倉庫の様な建物の「シャンクレール」が見えると一同大はしゃぎをした。夜8時頃上野に到着し無事合宿を解散した。
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