記事一覧へ

INFORMATION ニュース

2023.03.10

日本におけるフットボールの厂史(11) 1939春~秋

お知らせ

◆ 1939(昭和14年) ◆

 

昭和十四年一月元旦第二回東西選抜対抗試合は二時から開始されたがそれに先立つて両軍の入場式、それから皇居、明治神官の遥拝、国旗掲揚に続き浅野会長の開会の挨拶等の儀式を行つた。皇居および明治神官遥拝の儀式等は当時どのスポーツの試合においても行はれていたのは非常時下の影響であつた。

 

当時は曇天であつたが風がなく、その点は良かつたのであるがグラウンドは霜どけのため泥濘状態となり選手は思うように動けないような有様であつた。

主審松本、副審ファーラー、線審原、計時名護の四人の審判の下に午後二時関東のキックオフで試合は開始された。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
関 東 21 19 23 0 63
関 西 0 0 0 0 0

 

関 東 関 西
山 片 LE
島 村 LT 岡 本
黒 川 LG 浜 本
坂 本 C 橘 谷
花 岡 RG 吉 岡
福 島 RT 河 野
河 原 RE 小 林
保 田 QB
福 田 LH 藤 井
藤 堂 RH 山 内
田 村 FB 坪 井
交替

(関東):千輪、大林、ロス、笠原、中上、鈴木、福田、小黒、深江、島、野村、町田

(関西):藤本、本山、楠部、難波、轟、山上、奥野、上村、清水

試合経過は関東の霜解けグラウンドに不慣れな関西軍は足をとられて動きに制限を受け、先づ関東のキックオフをフアンブルしそれをリカバーされ、関東軍の攻撃となり、第一プレイで関東福田中央を抜けて三十ヤード快走一気にタッチダウンし、試合開始四十秒で早くも得点し、それ以後は関東の一方的試合となつて63-0の大差で関東は二聯勝した。

 

この日曇天ではあつたが明治神宮外苑球技場には初詣で帰りの人も集めて約一万五千の観衆がつめかけて大変な盛況であり、フットボールは益々日本人の中に定着して来る風調をみせていた。この東西選抜戰で昭和十三年度の公式戰は完全に終了をつげて春の練習期間迄はシーズンオフとなつた。

 

この年の三月には次のような新聞記事が出ていた。

「本場の米蹴団を引率し、ハンター氏日本訪問を計画」と云う見出しで

 

「ニューユーク特電十三日発、ニューヨーク・ジャイアンツの選手でしばしば日本へ米国の野球選手団を聯れて行つたハーバード・ハンター氏は近く日本へ米式蹴球選手団を派遣する計画を持つている。同氏は本社記者に対して十三日次の如く語つた。

 

日本では米式蹴球が次第に普及しフアンも少なくないから自分は近く米国の職業蹴球団又は先年マイアミ、カリフォルニアから渡日した学生蹴球選手団よりも優秀な学生チームを同伴して再び渡日したいと計画している。

 

東京では前後六回、関西で数回エキジビション・ゲームをやり度いと思つている。日本は支那事変で忙しいが流石は大国民であるだけ事変は事変として平常の如くスポーツに精進して綽々たる余裕を示している。自分が蹴球団を統率して渡日するも決してそしりを受ける様な事はないであらうと確信している」

 

以上のような記事である。

 

ハンター氏はプロ野球のチームをつれて日本に来たことのある人で、日本にフットボールが盛んになつたことに目をつけてプロ或は学生のフットボールチームを聯れて日本に来てエキジビション・ゲームを行うと云う計画を持つていたのであろう。これは日本から招待状を送つたものではなくハンター氏が企画したものであつて、ハンター氏は現在で云う一種のプロモーターであつたのであろう。そして一もうけをたくらんでいたのかも知れないが、この計画は日支事変の最中であるのと、余りもうからないとハンター氏が考えたのか遂に実現することはなかつたが、アメリカでも日本のフットボールが盛んになつて来ていることがだんだんと認められて来たことを表現しているものである。

◆ 1939(昭和14年)春 ◆

 

昭和十四年五月二十一日午後六時半から朝日新聞社記念室で東京学生米式蹴球聯盟の役員会を開催し、前年度の会計報告、理事の改選等を協議し、昭和十四年度の理事は

 

理事長:ポール・ラッシュ
書記長:小川徳治
会 計:松本(正)
理 事:松本瀧蔵、山東、岩下、元村、宇野、伴、藤堂、田村、中山、神宮、六井、梶谷、細田、島袋、加納

 

と決定したが、この理事の中には岩下、矢村、宇野等とラグビー畑の人が入つているが、これれは何れも新聞記者であつた。これは一つにはマスコミを上手く利用しようとしたためである。

又この役員会において早稲田及び慶応が帯同して朝鮮に渡り京城で公開試合を行い、又北支、満州に代表チームを派遣する件も協議され

一.早慶両校を京城に派遣する件、二十八日京城に於て朝鮮に於ける初の公開試合を挙行、一行は選手三十名でファラー氏が引卒して行く。
二.北支及び満州国遠征に就ては明年一月或は三・四月の頃、代表軍を派遣する予定で準備を進める。

 

早稲田、慶応帯同で京城でのエキジビション・ゲームは在京威の早慶の卒業生等の招待で遠征が決定していたのを聯盟で正式に認めたものであつて五月二十四日には東京発と云うことが決定したのである。

その後の新聞には次ぎのようなことが報道されている。

「東京学生米蹴代表明春北支、満州へ」と云う見出しで

 

「東京学生米式蹴球聯盟の早慶両軍は二十四日東京駅発京城へ遠征、二十七日京城府営球技場で試合後三十一日帰京するが明春は聯盟代表軍が北支、満州へ遠征することに決定、ポール・ラッシュ理事長に折衝を一任した。現在北支では燕京大、北京大にカソリック大学の三校がチームの組織を計画しているが実現不可能の場合は聯盟軍のデモンストレーション・マッチを行ふ筈」

 

と云うものであつた。

 

早慶両校の帯同朝鮮遠征は前にも述べたように在朝鮮の早慶両校の卒業生の招待によるものであり、当時はまだ朝鮮にはフットボールを実施しているチームがないので、フットボールの早慶戰京城場所と云うところである。一つにはフットボールの朝鮮普及も兼ねて行はれたものであるが、第二の北支、満州遠征と云うのは、当時に日本で徐々に盛んになつて来たフットボールを北支、満州でもチームを作つてプレイをしようと云う傾向が見られたので計画されたのであつた。まだこの遠征を決定した時期にはチームは無かつたのであるが、燕京大学、北京大学、カソリック大学にフットボールチームを組織するような傾向があつたことは事実であるが、これはその傾向がその時期にあつたと云うだけで現実にはチームは出来なかつたのである。

 

それは当然のことであると思はれる。当時は日支事変の最中であり、北支、満州一帯は日本軍の占領下にあつたのだが広大な中国大陸のことであるから占領区域内において通常に何所かで戰斗が行はれていた時代である。フットボールのチームを作るどころの騒ぎではなかつたのである。

 

結局この第二の北支、満州遠征はそのような事情で現地にチームがないと云うことと、翌昭和十五年はますます日支事変は拡大し、日本も非常時に突入し軍国調は益々国内に拡大して、とてものんびりと北支、満州遠征など出来る様相ではなくなつたのでこの計画は取り止めとなり実現しなかつたのである。

 

この年の五月十三日に立教対関大の第三回定期戰が甲子園南運動場で午後二時十分から主審林、副審畑の審判の下に挙行された。その結果は

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
関 大 6 0 14 7 27
立 教 0 0 0 0 0

 

関 大 立 教
藤 本 LE 吉 田
河 野 LT 安 藤
楠 部 LG
吉 岡 C 永 井
村 沢 RG
本 山 RT 小 黒
RE 小 池
坪 井 QB
藤 井 LH 山 田
RH 松 田
奥 野 FB 金 子
交替

(関大):山上、古山、小河、中野、深井、貴志、竹内、多賀野、中村、福井、山下、米今

(立教):岸、小林、貫井、山城

これでこの立教対関大の定期戰は一勝一敗一分と云う五分の成績となつたが、関大としては前年の法政に一勝した同部創立以来の二勝目を立教から得て意気大いに挙つたのである。

 

一方朝鮮遠征の早慶両チームは五月二十四日午前十時三十分東京駅発の急行列車で出発し二十七日京城市営球技場で早慶対抗戰を行つた。その結果は次のとおりである。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 0 6 0 6 12
慶 応 0 0 2 0 2

一行は翌二十八日夜京城発列車で帰路についた。なおこの両チームの監督は聯盟理事の梶谷正明氏に引率されていたのである。

 

この朝鮮遠征の帰路慶応は大阪に下車、甲子園南運動場で関西大学と第五回定期戰を行つた。その結果は

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
慶 応 0 7 0 7 14
関 大 0 0 6 0 6

で慶応が五聯勝した。然し関大の実力は年々成育して来た。

 

こうして昭和十四年の春の練習シーズンを各校共終了した。この年の七月には満州のソビエートと満州の国境ノモンハンにおいて日本及び満州軍とソビエート軍が衝突し大激戰を展開した。これが有名なノモンハン事件である。両軍共戰車、飛行機を動員しノモンハンの砂漠の平原に大戰斗が行われたのである。国内においてもそれ迄相手にしていた弱体の中国軍と違つて大国ソビエート相手とあつて一段と緊張したのである。満州に駐留していた日本陸軍の内でも最も精鋭と云はれた関東軍も総力を挙げて応戰したのであるが、敵は卋界にも冠たる大陸軍国のソビエートであり、その装備も優れ状況は容易ならざるものがあり、緒戰に苦戰した日本軍は兵力を増強し八月には第二次ノモンハン事件へと進展していつた。

 

第二次ノモンハン事件のおいてもソビエート軍は頑強に抵抗しその結果は見通しがつかない様相を示し、或は日ソ戰爭に迄発展するのではないかと心配されたが九月十五日に日ソ間に停戰協定が成立し、ノモンハン事件も終結したのであつたが、二年間に亘る日支事変が益々深身にはまつて行くと同時のノモンハン事件と戰爭はいよいよ深刻な状態になり、何時平和が日本に帰るか見当もつかなくなつて来た。

 

国内においては物資はだんだん不足して来て衣食についても配給制が実施されるような様相になつて来た一方、軍の尻馬に乗る一部官僚の指示により国民の戰意昂揚熱にあほられて、国民の間には国家意識が旺盛になつて来ると共に官憲による圧力も強力なものとなつて来た。一方外国は中国援助の意志を示す国が多くなり、日本に対して中国よりの撤兵を強国に申入れ、日本に対する経済封鎖の行為に出るようになり、日本は孤立状態となつた。

 

一方ヨーロッパにおいても戰雲は急を告げ、この年即ち昭和十四年九月にはヒットラーのナチスドイツ軍は遂にポーランド進攻を開始し第二次卋界大戰の口火は切つて落されたのである。このように地球上の東西の大国がその地域において各々戰斗を展開し卋界は混乱状態になつた大変な年であつた。

吾々フットボールの先輩も殆ど兵役の義務について外地に或は内地育にと国民の責務を果す任務について行つた。中には外地ですでに戰死をした先輩も出る位の非常時であつた。

◆ 1939(昭和14年)秋 ◆

 

このような物情騒然たる中に九月一日から昭和十四年のフットボールシーズンは開始され、各校は九月一日から各々合宿練習を開始したのである。昭和十四年度東京学生米式蹴球聯盟のリーグ戰日程は九月十七日午後七時から丸ノ内アメリカンクラブで理事会を開催し、スケジュールを決定した。グラウンドは全試合後楽園野球場を使用することも決定した。そのスケジュールは次のようである。

 

十月三日    慶応対法政
十月十日    明治対立教
十月十九日   慶応対立教
十月二十一日  早稲田対YCAC 於横浜YCAC
十月二十六日  明治対慶応
十月三十一日  早稲田対法政
十一月四日   明治対YCAC 於横浜YCAC
十一月十四日  早稲田対立教
十一月十八日  立教対YCAC 於横浜YCAC
十一月二十三日 明治対早稲田
十一月二十六日 法政対立教
十二月二日   明治対YCAC 於横浜YCAC
十二月九日   明治対法政
十二月十六日  慶応対YCAC 於横浜YCAC

 

以上のように決定したのである。

 

その他にこのシーズンからは試合中、チャージド・タイムアウトその他のタイムアウトの場合にグラウンドに飲用水を持ち込むことを禁止した。これは今迄はタイムアウトの場合ベンチからバケツに水を入れてグラウンドにウォーターボーイが飲料水を運び、グラウンドの選手がそれを飲んだり、うがいをしたりしていたが、それがスタンドの観衆から見ると何か奇異に感じられたのであろう。事実グラウンド内でタイムアウトの場合に水を呑むと云うようなスポーツは他には余り見当らない。そのことが新聞記者内にも色々と批判があつたので、この際禁止しようと云うことになつたものである。もし水をどうしても呑まなければならないような時には審判の許可を受けてそれが認められた上で呑まなければならないことにした。

 

もう一つは試合中に審判に抗議を申し込むことの不愉快さを一掃するためにラグビーのように審判は絶対であると云う主義を採用した。これらは多分に当時の時代を反影して、日本化したフットボールを行うことになつたのである。

 

昭和十四年の春には各校共、日本にフットボールを創設した当時からの功労のある優秀な選手を多く卒業させた。

 

明治では黒川、花岡、渡辺、坂本、布田、福島、安田等
早稲田では内藤、西岡、野口、島村、北村等
立教では池上、坂口、細田、鈴江、栗林、服部
と何れも日本のフットボール創立の功労者許りであつた。

 

ただ、法政は一人の卒業者もなく、慶応も光吉一人と云う状態でその点においては後進の法政と慶応は恵まれていた。その為に特に慶応はフットボール部創立の時に樹てた五ヵ年計画の最後の年でもあり卒業生も少なく、実力的に大変有望視されていた。

 

第一試合の日は十月三日であつたが恒例によりこの日の後楽園野球場で各校の選手はユニホームを着用して、各校の校旗を先頭にして入場式を行い、三塁側スタンドに向つて整列し、宮城を遙拝、明治神宮を遙拝し、戰没兵士の英霊に対して黙祷をささげ、皇軍の特兵の武運長久を祈り、国旗を掲揚し、明治より優勝のトロフィーの返還をし、その後ポール・ラッシュ理事長の開会の挨拶等長時間を要した。これもこの時代を反響し各スポーツ共同じような開会式を行うのを例としていたのである。卋はまさに非常時の真只中にあつたのである。

 

引続き慶応対法政の試合が午後二時二十五分から開始された。

主審松本、副審ファラー、線審島、計審町田、キックオフ法政

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
慶 応 6 0 7 0 13
法 政 0 0 6 0 6

 

慶 応 法 政
緒 方 LE 佐々木
福 田 LT 持 田
渡 辺 LG 宇賀神
吉田(辰) C 笹 沼
吉田(明) RG 深 江
浄 土 RT 中 島
山 片 RE 作 前
遠 見 QB 六 井
田 村 LH 国 本
竹 村 RH 小 野
藤 堂 FB 藤 家
交替

(慶応):富田、辻田、平田、松尾、谷藤、平川、佐藤、田沢、近藤

(法政):中上、飯塚、中里、坂田

相方実力伯仲しリーグ戰開幕をかざるのにふさわしい好ゲームであつたが結局はラインの強い慶応が勝つた。

 

十月十日には明治対立教の試合が挙行された。これに先立つて各新聞にはこの試合の予想記事が出た。

 

東京大学米式蹴球リーグ第二戰は十月十日午後三時から後楽園野球場で行はれた。

主審梶谷、副審沖、線審藤堂、計審中山、キックオフ明治

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 27 7 13 0 47
立 教 0 0 0 7 7

 

明 治 立 教
町 田 LE 小 池
LT 広 沢
井 上 LG
寺 田 C 永 井
RG 小 堀
髙 木 RT 小 暮
当 山 RE
浜 崎 QB 杉 山
吉 本 LH 鈴 木
坂 本 RH 金 子
和 田 FB 山 田
交替

(明治):川島、小浜、福永、髙木、平沢、河島、松平、宮田、大浜、泉、山本、李

(立教):島袋、金、貫井、上田、松田、鄭、安藤、山城、吉田、平

この試合は両チーム共ラインは互格に斗つたがバックに明治は一日の長があり、特に明治の得点の殆どはフォワードパスによるもので明治のバックのフォワードパスの優秀さと立教のバックのパスディフェンスの甘さがこの大量得点となつて現はれた試合であつた。

 

十月十九日東京学生米式蹴球リーグ戰第三日目慶応対立教の試合は後楽園野球場で午後三時から行はれた。この試合にも多数の観衆が集りフットボールの人気は益々盛んになつて来た。

主審松本、副審黒川、線審伴、計審福田、キックオフ慶応

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
慶 応 0 6 0 9 15
立 教 0 7 0 0 7

 

慶 応 立 教
富 田 LE 小 池
福 田 LT 小 黒
渡 辺 LG
吉田(辰) C 上 田
吉田(明) RG 小 堀
浄 土 RT 広 沢
山 片 RE
桑 原 QB 鈴 木
竹 村 LH 山 田
田 村 RH 金 子
藤 堂 FB 杉 山
交替

(慶応):平川、遠見、緒方、津上、田沢、松尾、近藤、平田、谷藤、藤岡、佐藤(洋)、辻田、永松

(立教):永井、金、鄭、島袋、戸

この試合は立教のラインは強く、強力を誇る慶応のラインを押し気味に試合を進めたがメンバー不足による疲労が徐々に現はれ、遂に慶応に押し切られたのであるが惜しい試合を失つてしまつた。

 

リーグ戰第四試合は十月二十八日午後一時から後楽園野球場で挙行された。この試合と翌日の早稲田対法政の試合の予想を例によつて加納氏は朝日新聞に長文をのせた。その為か観衆も大勢入り盛況であつた。特に加納氏の文の中の慶応の五ヵ年計画が完成し、慶応の力量について力説したのが効を奏したのかも知れない。

 

主審マイズナー、副審島袋、線審カーディナー、計審福田、明治キックオフ

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 20 0 0 6 26
慶 応 0 0 0 0 0

 

明 治 慶 応
町 田 LE 富 田
大 浜 LT 福 田
井 上 LG 渡 辺
寺 田 C 吉田(辰)
RG 吉田(明)
髙 本 RT 浄 土
当 山 RE 山 片
福 永 QB 桑 原
和 田 LH 竹 村
浜 崎 RH 田 村
FB 藤 堂
交替

(明治):富田、泉、河島、李、伴、松平、鈴木、山本、川島、吉本、小花

(慶応):緒方、辻田、平川、松尾、谷藤、遠見、近藤、佐藤、藤関、平田、津山、田沢、中野

この試合慶応は強力なラインで明治を押す作戰であつたが、明治の方が一枚上で第一クォーターに走力のあるバックを縦横に走らせて二十点と云う大量得点を挙げ一方的に慶応を押し切つた。

 

続いて十月二十九日にはリーグ戰第五試合目の早稲田対法政の試合が行はれたが、これに先立つて立教と関西大学の試合が行はれた。これはこの年から東京学生米式蹴球聯盟が関西で唯一のチームとして試合相手のない関西大学をリーグ戰開催期間中に二回東京に招待して東京学生米式蹴球聯盟校と試合を行い関西大学の実力の向上と関西地区にフットボールの普及を目的として実施されたもので、第一回戰は立教と対戰し、第二回目は十一月二十六日に慶応との対戰が組込まれていたのである。いわば東京学生米式蹴球聯盟としては関西援助に力を貸す為の努力の現はれであつたと云うことが出来る。

 

十月二十九日立教対関西大学戰は、午後零時半より後楽園野球場において主審梶谷、副審伴、線審藤堂、計審田村で立教のキックオフで開始された。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
立 教 0 7 0 0 7
関 大 0 0 0 7 7

 

立 教 関 大
LE 藤 本
広 沢 LT 本 山
LG 村 沢
上 田 C 吉 田
小 堀 RG 楠 部
安 藤 RT 河 野
吉 田 RE
鈴 木 QB 坪 井
島 袋 LH 藤 井
金 子 RH
山 田 FB 奥 野
交替

(立教):小林、小池、鄭、貫井、永井、小黒、山城、岸、杉山、松田

(関大):福井、古山、中村、深井、中野、竹内、山下、小河、多賀谷、山上、米谷、徳永、庄野

この試合関大を押し気味に試合をしたが遂に引分けに終つた。

続いて、同日午後二時半から東京学生米式蹴球聯盟リーグ戰第五試合目の早稲田対法政戰が同後楽園野球場で挙行された。

主審松本、副審沖、線審黒川、計審伴、早稲田キックオフ

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 7 6 6 7 26
法 政 0 0 0 0 0

 

早稲田 法 政
笹 井 LE 佐々木
金根田 LT 持 田
LG 宇賀神
中 山 C 深 江
RG
RT 富 山
山 田 RE 作 山
宮 本 QB 中 上
LH 国 本
土佐谷 RH 藤 沢
名 桑 FB 六 井
交替

(早稲田):津元、福島、藤岡、加藤、相吉、太田、唐沢、福田、今村、村木、神宮、野呂、梅田、中楯、平山、土井

(法政):藤家、中島、小野、矢吹、飯塚、坂田、相庭、中里

この試合は今シーズン早稲田の初試合であるので早稲田の今シーズンの実力を知る為に非常に興味がもたれる重要な試合であつたが、早稲田は予想外にラインが強く法政のラインを圧倒して各クォーターに得点を挙げ楽勝し本年も早稲田強しの感を持たせた。

 

十一月四日には明治がYCACと試合をする予定であつたが、都合により法政が対戰することになり横浜根岸のYCACのグラウンドで挙行された。その結果は次の通りであつた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
YCAC 6 8 0 0 14
法 政 0 0 0 0 0

十一月十六日は東京学生米式蹴球聯盟リーグ戰第五試合目の早稲田対立教の試合が、午後二時四十分から早稲田の東伏見のグラウンドで、主審松本のもとに早稲田のキックオフで行はれた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 6 33 6 14 59
立 教 0 0 0 0 0

 

早稲田 立 教
笹 井 LE
LT 広 沢
LG
中 山 C 上 田
野 呂 RG 小 堀
屋根田 RT 小 黒
山 田 RE 小 池
岩 本 QB 杉 山
今 村 LH 金 子
村 木 RH
神 宮 FB 島 袋
交替

(早稲田):名桑、土佐谷、野村、津元、福島、中楯、月早、加藤、張、梅田、福田、平山、唐沢、相吉、土井、加賀谷、近藤、中田、小田

(立教):吉田、安藤、貫井、松田、永井

立教は負傷者が多く交替要員も底をつきメンバーの多い早稲田の下に屈した。早稲田は法政戰以上に好調に試合を進め一方的に大勝した。

 

十一月二十三日には又もや優勝決定戰とも云うべき明治対早稲田の試合が行はれた。

これに先立つて東京の各新聞にはこの予想記事を大々的に掲載した。その内で加納氏の書いた朝日新聞の予想記事には次のように書いている。

 

“共に無疵の早明、白眉の爭覇戰へ、光味を唆る米蹴球”と云う大きな見出しでその前文に

 

「シーズンの始から関東の覇を爭ふものと目されていた早明は予想に違はず共に無疵、明大は対法大、早大は対慶大の一試合を残して二十三日午後一時から後楽園球場で事実上のリーグ戰爭覇戰を挙行することになつた。

 

この一戰こそは体格の相違こそあれ、精神的にも、技術的にも十万余の観衆を熱狂させる本家米囗のビッグ・ゲームに較べるも何等遜色のないものである。」

 

と少々オーバーな文章で、引続き長文の予想記事を書いている。

 

「本場の米国では、観衆の好奇心を満足させるため、職業選手間の試合では六十ヤード或は七十ヤードの超前投球を狙ふことが流行となつてアメリカンフットボールの華々しい場面をのみ点綴することに腐心する結果、防御側の前衛に人員を削つて広大なバックの地域に配置し攻撃側の超長前投球に備へることとなつた。

 

自然この観衆に対する反響は、学生の試合にも無影響ではあり得ず、学生のプレイもこの悪傾向に支配されて、質実剛健の気風を養ふ競技本来の使命を侵される危険を感ずるに至つた。

そこで今シーズンは競技規則に大改革が加へられ、攻撃側前衛は両翼の二名を除いて中間の五名は前投攻撃を行ふ場面に限つてその時のスクラムラインを超えて前進してはならないこととなつた。我国の現状は幸いにもこの種、米国のおける過ひに妨げられるに至つてはいないが明大の行ふ長前投攻法の豪快味は、観る者の目に深く鮮やかな印象焼付けることであらう。」

 

ここにも書いているようにこの頃から徐々にプロフットボールが盛んになつて来たのである。

 

勿論プロフットボールは学生と同様な規則及び戰法を使用していたのでは伝統のある学生フットボールには太刀打ち出来ないので、規則も学生と変つて変化に富んでそしてもつとラフな見て面白いように変え、又戰法も派手なプレイを多く採用した。

 

従つて六十ヤード、七十ヤードのロングパスを採用して観衆の関心を集めるように努力しプロの隆盛を計つた。それにつれて学生のフットボールもアメリカでは段々プロの戰法に似たようなものになつて来た。それでこの年からN.C.A.A(米囗学生体育協会)では学生フットボールの規則の一部を変更して学生フットボールのプロ戰化を防禦するように改革した。その一例が加納氏の書いているように攻撃側のスクリメージラインに居るラインメンの内両エンド以外のラインメンはフォワードパスの場合は、そのスクリメージライン内に停止していなければならないことに変更された。それ迄はフォワードパスの場合の両エンド以外のスクリメージラインメンは勿論相手側のラインの侵入を防禦してパッサーに充分の時間を与えるべく努力するのが主たる任務であるのは当然であるが、もしその任務が終了すればダウンフィールドして相手側のタックラーのブロックを行つたり、或は又味方のレシーヴァーからのラトラルパスを受けることが出来たがこの年からはそれが出来なくなることが規則で定つたのである。

 

加納氏はこの点について “我国の現状は幸ひにもこの種米国における禍いに妨げられるに至つてはいないが”と書いているが当然我国にはプロフットボール等はなかつたし、我国のフットボールはNCAAの規則に準拠すると云うことが東京学生米式蹴球聯盟設立頭初から決定されていたので、このNCAAの規則を採用したことは当然のことである。

 

更に加納氏は続けて筆を運んでる。

 

「試合はリーグ中最強の前衛陣を誇る早大が戰車のやうな突進力を有するFBの名桑を筆頭に、梅田、土佐谷をかつて前衛陣の突破で漸進四回十ヤード前進の確実な実現を基調として時の経過と共に明大前衛の疲労を深め精神的の重圧をも加へて行かうとするのに対して、明大は前衛陣をもつて正面から早大の前衛に挑戰せず攻撃に際して前衛は複雑な交錯戰を描き、早大前衛甲に対して位置する明大前衛の甲は、必ずしも早大の甲に対して行動を起さず味方の乙或は丙に早大の甲を委ねて、巳は早大の乙或は丙を倒す等、対手の力を逆用する手段によつてバックメンに十分に時間を与へることであらう。

 

バック陣は福永、浜崎の護衛によつて、畑、町田の前衛陣突破を計り、或は畑、河島の護衛によつて大前の前衛突破、吉本の翼迂回の長走を狙ふことであらう。フォワードパス(前投球請攻法)では早大に福田、名桑の好投手があるのに対して、明大は長前投に大前、中間巨髙の前投には和田、吉本、畑、浜崎、河島の全員何れもが好投者であるといふ人材の豊富さである。

 

捕球者側では明大が当代随一のペアー当山、町田を両エンドに持つのに対して、早大は長身で確実な野村をエンドに据え最近長足の進歩を遂げた山田を右エンドに持つている。チーム全体としては早大が、依然、前衛陣に強味を持つに対して明大はバックに投走の優れたプレイヤーが豊富である。従つて早大前衛がその突破力を以つて技術的な明大前衛を制圧することが出来れば、走力と機智を誇る明大バックも施す策につきることであらうが、明大前衛が早大前衛を完封出来ないまでも五割を計画通り進めることが出来れば、明大バックは期待に反かぬ進撃効果を挙げることであらう。

 

三勝二敗明大の一回勝越しとなつているこの爭覇戰、紫白の明大か紅白の早が雪辱するか」

 

と以上のような長文の予想記事であつたが、この年あたりから又加納氏独特の術語を新作した。即ちフォワードパスを「前投球」と云う日本語に作り変へ、ロングパスを「長前投球」、超ロングパスを「超前投球」と云つている。又ラインメンのことを「前衛」と云い変えたりして時局の厳しさが何かその中ににじみ出て来るような文章である。

 

他の新聞の予想も殆ど加納氏と同様なものでラインにおいては早大に有利であり、バックは明大が有利との記事が多かつたが、早大がこの年から多く採用したスクリメージライン突破後に行うラトラルパスに注目した記事が意外に多かつた。

 

十一月二十三日は祭日でもあり、又晴天に恵まれて後楽園野球場は満員になり三塁側スタンドに入り切れないで一部の観衆は遠くライト側のスタンドにも入らなければならない位の盛況であつた。

 

主審梶谷、副審ファウラー、線審島袋、計審藤当で午後一時早稲田のキックオフで試合は開始された。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 0 0 0 6 6
明 治 0 0 0 0 0

 

早稲田 明 治
野 村 LE 町 田
福 島 LT 髙 本
藤 岡 LG 坂 本
中 山 C 寺 田
月 早 RG
中 楯 RT 大 浜
山 田 RE 当 山
宮 本 QB 福 永
LH 吉 本
土佐谷 RH 浜 崎
名 桑 FB
交替

(早稲田):福田、津元、梅田、今村、梶、益津

(明治):大前、和田

この試合の批評を前年まで明治のタックルをやつていた渡辺了助が読売新聞に書いているのでその一部を転記して見よう。

 

「早大のライン突破たる所謂ジョーンズ・システィムとこれに対する明大のウォーナー・システィムは、日本の米蹴界を二大別するものでこの両軍の対戰は非常に期待されたが、果然早明両チームは互ひにその特徴を発揮して好試合を展開し白熱戰に終始した。

而してこの中にあつて早の斗将福田が六尺豊か二十一貫の満身に斗志を漲らせて自軍を一身に背負って奮斗したのは明の和田が常に味方をリードし志気煥発に努めた敢斗と共に印象に残つた。

 

併し両軍選手には幾分固くなつた感がありプレーが萎縮して十分攻撃のチャンスがあるに拘らずパントで逃れる消極戰をしばしば行つていたのは首肯出来なかつた。攻撃チャンスのある間はもつと果敢な戰斗を試るべきである。この日唯一のタッチダウンは第四節の五分早大LHの張が中央線で球を得、明大の猛タックルを巧みにはずして快走長躯五十碼の殊勲を樹てて挙げたものであつた。

 

かくて結果は明大の惜敗に終つたが明大も軽量のラインがよく早大の重量を破つてチャンスを作り、バックス又大前、和田らの快走に強引をきかせて快斗した。両軍の実力まさに伯仲といふべく閉戰直前明大大前のフアンブルがなかつたら結果はどうなつていたかわからない。明大としては不運の敗戰であるとともに諦めきれぬものがあつたらう。かくて早大はあとに慶応との一戰を残しているが優勝は最早確定的となつた。」

 

と戰評を書いている。

又朝日新聞には加納氏が次のように書いている。

 

「事実上の覇権を賭けたこの一戰早大は予想の如く開始後は重量前衛をかつて正面から堂々と明大陣突破を企てたが、明大は早大のこの強襲に対して十分予期していたところがあつたやうで、名桑、宮本の突進も鮮かに食い止めた。そこで早大は明大に対して最も危険性の多い翼迂回戰或は短前投攻法を採るの止むなきに至つたが、意外にも明大はこの二つの攻法に対して前衛陣突破に対するとは雲泥の差をみせ、二三名の援護下に走る張、名桑はしばしば一挙ダウンを改める快走を示した。

 

遂に第四クォーターに入り早大は自陣三十五ヤード中央の攻撃から福田パントに逃げるとみせて左前方に走る張に短巨離パスを送れば明大側に張をマークするものなく前衛陣の難関を突破最後の守り和田をダヴルすれば張の周囲は早大の援護者のみとなり七十ヤードの快走をつづけて貴重なタッチダウンを挙げた。

 

明大はその後前衛突破に死力をつくし早大前衛との間に火の出るやうな肉弾戰を敢行。右隅九ヤードにまで肉薄したが、スクラムからの球を大前がフアンブルしてタイム・アップとなり明大最後のチャンスを逸して敗退した。

 

この一戰は明大が早大が攻撃の根幹とする前衛突破の強襲に対して十分な対策を得、その他の早大攻撃法に対していささか対策に缺けるところがあつたのに対して、早大は試合の初期、早大の正攻法頼りなしとみて、逸早危険を冒して前投攻法に移り、ここに明大の対策不足を見出したことによるもので、この冒険を敢てした早大の頭脳、福田の勇気とその後のプレイ運用法は賞賛を惜しまれぬところである」

 

と云う試合の批評を書いている。

 

実際この試合に備えて明治は早稲田の強力な力を持つライン攻撃に対して極度の警戒をはらい、これに対する練習に主力を置いたものと思はれる。即ちライン戰に於て対等に斗い得るならばバックに力のある明治は有利であると見るのは当然のことであろう。その為にラインに自信を持つ早稲田は試合開始と同時にライン戰をいどんで来たがこれは明治の予期していたところであつて、早稲田の強力なライン突破を見事に防御したのである。

 

両チーム共死力を盡して前半は一進一退をくり返えし勝敗の行衛は見当がつかなかつた。後半に入り早稲田はライン攻撃を切り換えてパス或はエンドラン、リヴァース等の戰法に出た。これは明治にとつては意表外であつたのか早稲田の攻撃は成功しボールは前進し出したが明治も善戰してこれを防いだ。然し第四クォーターの始め早稲田は自陣・三十五ヤードでパントフォーメーションを採用しパンター福田がボールを取ると蹴らないで前方の張にシヨートフォワードパスを成功させ、快速張は味方のインターフェアランスに護られて長駆六十ヤードを快走し、この試合両軍を通じて只一のタッチダウンを挙げて早稲田が快勝したのであつたが、第四クォーター最後の四分位の明治の必勝の力は実に見事なものがあつた。

 

それは明治は自陣四十ヤード位で攻撃権を得るや聯続のライン攻撃でさすが強力を誇る早稲田のラインをジリジリと押して行き、遂に早稲田のゴールライン五ヤード位迄攻め込んだのである。そしてその勢いで行くならば一つのプレイでタッチダウンが出来る位であつたが、ラストプレイでセンターからのスナップバックを、フルバック切札の大前が中央を突くべくリードした胸にボールを当ててファンブルしてしまったのである。このファンブルと同時にタイムアップのピストルが鳴り試合は早稲だの勝利で終ったのであるが、ここで大前がファンブルしなかつたらそれ迄の明治のラインの意気込みからすればタッチダウンが成功していたのではなかろうか。

 

明治のスパートが少々遅きに過ぎた感はあつたが、手に汗を握るような好試合であり、歴史に残るようなビッグゲームであつた。私も数多くのフットボール試合を見たがこれ程迫力のある試合を見たのは数へる位しかない、それ程の名勝負であつた。明治としてはさぞ残念であつたろうし、早稲田としては最強の明治の気力には肝を冷やしたことであろう。

 

この早稲田対明治のリーグ戰が終了後引続いて午後三時十分から横浜外人対関東OB戰が主審島、副審ファウラー、線審国本、計審田村で挙行された。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
関東OB 6 0 0 7 13
YCAC 0 0 0 0 0

以上のような結果で関東OBチームは昨年の雪辱を遂げた。十一月二十六日は東京学生米式蹴球聨盟リーグ戰第八試合の法政対立教戰が行はれたがこの試合に先立ち東京学生米式蹴球聯盟が招待した関西大学が第二戰目の慶応と対戰した。

 

主審梶谷、副審小川、線審伴、計審町田で後楽園野球場で午後零時半関大のキックオフで試合が行はれた。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
慶 応 0 0 6 13 19
関 大 0 0 0 0 0

 

慶 応 関 大
富 田 LE 藤 本
福 田 LT 本 山
渡 辺 LG 村 沢
吉田(辰) C 吉 岡
松 雄 RG 楠 部
浄 土 RT 河 野
山 片 RE
蓮 見 QB 坪 井
佐 藤 LH
竹 村 RH 藤 井
藤 堂 FB 奥 野
交替

(慶応):緒方、辻田、平田、平川、近藤、藤関、谷藤、津上、永松

(関大):福井、中村、石山、多賀山、小河、中野、山上、山内、竹内、山下、徳永

 

この試合に引続き東京学生米式蹴球聨盟リーグ戰第八試合法政対立教戰が午後二時三十分から主審松本、副審沖、線審福田、計審野村の審判員のもとに立教のキックオフで開始された。

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
法 政 0 0 6 7 13
立 教 0 2 0 0 2

 

法 政 立 教
中 里 LE 小 池
石 井 LT 安 藤
宇賀神 LG
笹 沼 C 永 井
沢 井 RG 貫 井
富 山 RT 山 城
佐々木 RE 小 林
中 上 QB 杉 山
國 本 LH 鈴 木
飯 塚 RH
六 井 FB 金 子
交替

(法政):中島、藤家、作前、小野、相庭、藤沢、阪田

(立教):上田、広沢、島、小黒、山田襄、小堀、吉田、岸

立教はシーズン終了近くなつて負傷者が多くなり思うように練習が出来ず不覚にも法政に敗れ昨年に続いてリーグ戰最下位の成績に終った。

 

十二月二日午後二時半から横浜根岸のYCACのグラウンドで明治対YCACの試合が主審島、副審沖、線審ドニエル、計審当山で明治のキックオフで挙行された

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 0 6 13 6 25
YCAC 7 0 0 0 7

十二月九日は東京学生米式蹴球聨盟リーグ戰第九試合の明治対法政の試合が後楽園野球場で挙行された。

 

この試合についても例によって各新聞は大きく予想記事をのせた。その内加納氏が書いた朝日新聞には次のように書いてあつた。

 

「明治は早大との対戰で一敗地にまみれ、制覇の野望は挫折のやむなきに至つたが、明大としては最後の対法政戰には明大の持つ凡巾ゆる複雑巧微なプレイを演じて明大の名誉のため総力を傾倒することであらう。

去る早明戰に於ても明大は不運にも味方のタックラー同士が早大の殊勲者張に飛び付く寸前衝突して張の七十碼に及ぶ快足を許してしまつたのであつた。併しながら明大はその後大前、和田の前衛陣突破で聯続ダウンを更新して進□、タイムアップ十秒前には早大の右隅三ヤードに肉薄、ここのスクラムから明大はまたも前衛陣突破の配置を構成した。明大前衛により、くっさくされる最後の突撃路へ明大随一の強力突破者大前が決死の突進を試みるのだ。球はセンターからスナップされた。明治は強力な早大の進入を阻んで見事な突撃路を開いた。がこの時不運にも大前は何故か貴重なボールを掌中から落しタイムアップのピストルの音で万事休したのであつた。

 

斯く重なる不運から早大に一敗を失った明大ではあるが、技術的には本家の米国大学チームにも劣らぬ実力を持ってゐるのであつて、対法大戰には大前、和田から町田、当山に送る長前投攻法に、或は吉本の翼迂廻の巧走にアメリカンフットボールの持つ高等戰術の総てを展開して観る者の心を奪ふことであらう」

 

と書いている。

 

対法政戰の予想と云うよりはむしろその前に行はれた対早稲田戰の戰評のようであるが、それにしても本家の米国大学チームにも劣らぬ実力を持っていると云うのは少々オーヴァーな表現である。

 

十二月九日は午後二時から東京学生米式蹴球リーグ戰第九試合の明治対法政の試合が後楽園野球場で法政のキックオフで行はれた。

 

主審島、副審沖、線審野村、計審小黒

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
明 治 14 9 12 14 49
法 政 0 0 0 0 0

 

明 治 法 政
宮 田 LE 中 里
大 浜 LT 石 井
LG 宇賀神
寺 田 C 笹 沼
RG 深 江
高 木 RT 持 田
RE 佐々木
福 永 QB 中 上
和 田 LH 国 本
浜 崎 RH 藤 家
FB 六 井
交替

(明治):町田、鈴木、松平、川島和、李、川島信、小花、坂本

(法政):相庭、作前、坂田、中島

この試合では明治の和田、浜崎、畑が縦横に快足を飛ばして大量点を得、又第二クォーターには法政陣二十ヤードから大浜のフィールド・ゴールを完成させる等、明治の良い面が全般的に表現された試合であつた。

 

東京学生米式蹴球聯盟昭和十五年のリーグ戰も最後の試合早稲田対慶応の一試合を残すだけとなつた。例によって各新聞はその記事を大きく書いているがその中で読売新聞の宇野庄治記者の書いたものを次に転記してみよう。

 

「早大の強味圧倒的、棹尾を飾る早慶米蹴戰」

と云う大きな見出しに引続き

 

「約二ヶ月余に亘って後楽園に展開した東京学生米式蹴球リーグ戰も十日の早慶戰をもって幕を閉ぢる。普通ならば覇権爭奪戰たる早明戰を殿りとする所であつたがリーグ戰開幕前布哇から慶応招聘の件があつたため早慶戰が最後に廻されたものである。」

 

と云うキャッチフレーズに続いて、

 

「問題の早明戰に首尾よく明大を屠った早大の実力からみればこの一戦ですでに決定した覇権が覆へるとは思はれないから慶応の肉芸に興味を沸かす試合と見てよからう。

 

早大は今シーズン明法立の三試合を全部零敗せしめる完勝ぶりを発揮してをり、殊にリーグ随一のスピードを誇る明大をもスコンクで退けてゐるので慶応に余程の頑張りがない限り零敗を免れないと見てよい。併しラインのチームたる早大はその名の如くラインの強い点で一頭地を抜いてゐるが攻撃の方ではまだ十分といへない節々があるので慶応の猛烈なラッシュには相当苦戰を演じるに違ひない。

 

早大が得意とする武器は中央を突破しショートパスからラトラルパスに移るプレイと福田、宮元等の好ブロッキング及び張、名桑、土佐谷等の重量俊足のエンドランにある。これに対する慶応はパスに対する守備に脆い点があるので、確実なマークとタックルで防がない限り大量得点を蒙るおそれがないでもない。

かうした大勢不利の慶応にとって唯一の活路は、田村、藤堂の大童の活躍であり、若し早大が対立教戰同様メンバーを落したりすれば案外得点は接近するかも知れないが、終始第一軍をもって臨むなら四、五十点の点差が出来るものと見られる」

 

と早大の楽勝を予想している。

又一方朝日新聞には加納氏が次のように書いている。

 

「早慶戰ではこれまでの戰績から見ても早大の勝利は恐らく不動のものと云ひたいのであるが、早明に緊迫した実力を持つ慶大が何れの競技でも共通な早慶戰に対する特殊な斗志の奔騰をかつて玉砕的な戰ひを挑む場合にはかに勝敗の予断を許さぬところもある。

殊に慶大は早大に対して今春京城に於ひて公開試合を行ひ接戰の後敗れたとはいへ、他校には得られなかつた早大研究の体験を有してゐる。

 

そこで慶大が慶大本来の強みとする前衛突破に攻法を集中し乍ら、機を見て藤堂、田村の翼迂廻を試みるか、或は春以来早大戰に備へて秘かに蔵する数種の新戦法を現すか、慶大の攻方は相当の迫力を従来とも持ってはゐたが、対早大戰では慶大とって置きの新戰術出現こそ望ましいものである。

 

早大は順当にゆけばさまで苦戰とは思はれぬこの試合では気分的にも余裕を持つことが出来れば定石を破った攻法で前投と見せては翼を迂廻し、長前投と見せては俗にいふシャベルパスといふアンダースローの短前投を放って敵の裏をかき、或は自由の女神と称はれてゐる奇術的なプレイも敢行することであらう。

 

この自由の女神といふのはバックの一人が前投球の構へでボールを握った腕を肩上後方にふりかぶる、いまや前投に移るかといふ瞬間背後を横に走る他のバックがこの構へた球を獲って翼迂廻に出る戰法である。恰度前投に構へたプレイヤーの型が自由の女神が燈火をかざした型に似てゐるところから斯く呼ばれてゐるのである。

果たして早大は楽勝出来るか、この試合は一に慶大の斗志と新戰術に俟つところが大きく、早大とて一瞬たりとも油断の出来ぬ一戰である。」

 

と書いており宇野氏も加納氏も明治に勝った早稲田の楽勝を予想して書いている。

 

ここで注目しなければならないことは宇野氏の書いている内で慶応のハワイ遠征の項がある。実際今迄のリーグ戰の組合せは第一試合は前年度第一位と第五位、第二試合は第二位と第四位と云うように組み合はされ、最終戰は前年度一位と二位が試合することになつていたのである。ところがこの年ハワイから慶応を招聘すると云う話がリーグ戰開始前からあつたのでそのリーグ戰のスケジュールを一部変更して異例の措置をとったのである。

 

これはハワイから招聘を受けたのか、慶応がハワイの有力者に働きかけたかはよく解らないが、後者の方が有力ではないかと見られていた。それは早稲田、明治のチームはハワイ、アメリカの二卋がプレイヤーの大部分を占めていたのに対して慶応は殆ど日本生れの部員で構成され二卋と云えば竹村位のものであつたから、もしハワイから招聘されるとすれば明治が第一位で次いで早稲田と何れかになる筈である。

しかも前年の優勝校は明治であるから折角招待するとすれば明治であろう。しかも明治のプレイヤーはハワイの二卋が多いし又OBでハワイに帰った者も多いからハワイ側から正式に招待するとすれば当然明治の可能性が多い筈である。

 

それが慶応が招聘されたと云うことは大変奇異に思はれるところである。それには慶応の卒業生がハワイに多くいて、しかも経済的にも豊な位置にあつたかも知れないので、それらの聯中が招聘したのかも知れないが、特に慶応の卒業生がハワイに多いと云うこともなかつた筈である。それよりはむしろ、東京学生米式蹴球聯盟の加盟校を見てもわかるように慶応は二卋選手の最も少ないチームである。それから推測して見てもハワイの一卋は勿論二卋においても慶応の卒業生は少いと思はれる。その少い慶応の卒業生の中にハワイで最も有力者がいたと云うことも聞いたことがない。

 

それなのに早、明をさしおいて慶応が招聘されると云うことは一寸解せないことである。そこでこれは察するところ各チーム共ハワイもしくはアメリカに遠征したい気持は持っていた筈である。事実片道の船賃を持って渡米してハワイで二試合位すればその入場料で宿泊と帰りの費用が出てしかも余分な金を持って帰ることが可能であることは各チーム共周知のことであつた。然し一チーム分の片道の船賃と云えば最低でも千五百円から二千円位は必要であつた。その当時の千円と云う金額は大金であつた。何しろ葉書が一銭五厘であり、そばのもり、かけが八銭であつた頃である。又家を建築する場合坪当り五十円位であるから二千円と云えば四十坪位の立派な家が出来た頃である。現在の物金になおせば四百万円から六百万円位の金額に相当するのではなかろうか。これだけの大金はとても一チームで集めることは出来ない相談であつた。

 

その点さすが慶応である。それに相当する金額を集めることが出来たのであろう。そして又慶応の藤堂の父親が日の出汽船と云う船会社を経営していたので、又別の方で援助があつたのかも知れないが、とにかく慶応はハワイ遠征の準備を続けており、その関係でリーグ戰のスケジュルを一部変更までしたのであつたが、結局は当時の日本の情勢の厳しさと海外渡航特に学生の海外渡航に対する制限の関係上、ハワイ遠征は実現することは出来なかつた。

 

それで昭和十四年度リーグ戰の最終戰早稲田対慶応の試合は十二月十日午後二時から満員の後楽園野球場で行はれた。主審松本、副審島袋、線審浜崎、計審小黒

Team 1Q 2Q 3Q 4Q TB TB Total
早稲田 0 0 0 0 0
慶 応 0 0 0 0 0

 

早稲田 慶 応
笹 井 LE 富 田
尾根田 LT 福 田
LG 渡 辺
中 山 C 吉田(辰)
野 呂 RG 吉田(明)
中 楯 RT 浄 土
山 田 RE 山 片
梅 田 QB 桑 原
今 村 LH 竹 村
RH 佐 藤
神 宮 FB 藤 堂
交替

(早稲田):野村、福島、藤岡、加藤、風早、土居、津元、宮本、土佐谷、福田、名桑

(慶応):緒方、上田、平田、平川、松尾、谷藤、津上、遠見、佐藤匡

予想は強豪明治に勝った早稲田の楽勝と云うことが大勢であつたが、結果は慶応の予想外の健闘と、明治に勝って気分的にゆるみの出た早稲田はメンバーも落し又本年の優勝を確信して慶応組し易しと見て練習にも余り熱の入らなかつた為であろう。チームのコンビネーションも思うようにならず大苦戦の結果やっと引分けと云うことで試合は終了した。早稲田としてはあと味の悪い最后の試合だったことであろうがとにかく昭和十四年度リーグ戰の覇者となつたのである。

 

これで昭和十四年東京学生米式蹴球聯盟リーグ戰は次の順位で無事終了した。

 

優 勝 早稲田 三勝一引分
第二位 明 治 三勝一敗
第三位 慶 応 二勝一敗一引分
第四位 法 政 一勝三敗
第五位 立 教 四敗

 

立教は二年聯続最下位の不面目にあまんじなければならなかつた。シーズンを終了して朝日新聞は加納氏の総評をのせた。

 

「米式蹴球リーグの回顧、技の明、力の早、急速度に大衆化」と云う見出しで

「卋界で最も男性的で猛烈な団体ゲームである米式蹴球も我が国に移植されてから六シーズンを終へ、東京における五大学のリーグ戰は去る十日の早慶戦で今季の幕を閉じた。結果は早大の優勝となり昨年の覇者明大に見事雪辱をとげた」

 

とキャッチフレーズをつけて本文に入っている。

 

「シーズンを回顧するにあたって今季特に目立った現象の一つとして、フィールド内に起ったことではないが観衆の理解が急速度に髙騰して来た一事を挙げたい。これは米式蹴球のゲームそのものが文字通りの肉弾戰でありながらプレイの一駒、一駒は凡て同一の型であるスクラムから開始されるので観衆の飲み込みも早い。

併し乍らその奥行きは益々広く深く一を知って又新たな疑問が起らぬではないが、ゲームを観る度に加速度的に理解を深め得る結果は、遂に次のプレイに対する予想となり、時と場合による作戰頭脳的プレイの変化にまで各自が容易に作戰を予想し得るに到るからであらう。競技そのもの年一年と日本化を企て競技規則からも今季は米国大学競技規則から一歩を踏み出し審判の判定は唯一絶対のものと改正され、フィールド内に飲料水の搬入も禁止される等日本化の実を挙げた。

これ等の改正は精神的鍛錬をもスポーツの重要要素とする以上、我国では当然の改正であつてこのため益々競技は日本色豊かとなり観衆に親しまれるに至つたのは見逃せぬ事実であつた。

 

競技そのものの上から見ると今季各チームの技術的向上は予想以上で恐らく過去六ヵ年中特筆に価する躍進を遂げていたといふことが出来よう。この証左としては各チームがセンターからのスナップバックに落球が殆ど無かつた一事をもってしても首肯出来るのであつて、昨年迄各チーム共スナップバックのファンブルによって球を相手に奪れ攻撃権を失ふ場合が甚だ多くファンブルを稍々不可抗力的に視てゐたのに較べ隔卋の観があつた。殊にバックマンがスタートを切った後にスナップバックされた球に対して正確な協同動作を起し得たといふことは日本における米式蹴球の劃期的進歩といはざるを得ない。

 

全シーズンを通じて数少いファンブルのうち最も印象的であつたのは早明戰に於いて明大は早大の一タッチダウン先取を追ひ猛烈な追撃戰を試みた。後半タイムアップ十秒前明大は右隅三ヤードに早大を追込み、第四ダウン残り三ヤードを大前の突撃力に頼って突破タッチダウンを酬いて同点確実トライポイントの成否如何で明大の制覇成るか否かと、大前の突破力をもってすればタッチダウンは既定の事実とみられたのであつたが、意外や大前は不覚にもこのスナップバックをポロリとファンブルし明大イレブンは呆然自失のうちにタイムアップのピストルの音を聴いたのであつた。

 

チームを單位としてみると早明はリーグ中不動の最高地位を保ち、技術の明大に対し力の早大といふ伝統の立場を夫々堅持してゐたが、早大は力の漸進主義に織り混ぜた大胆な術が明大の意表に出る結果となつて明大を降したが、慶大は術の明大に対して飽くまで漸進主義一本槍で対抗した結果、明大の術に苦杯を嘗めた。

併し乍ら慶大は力の早大対しては限りなき斗志を持って恰かも早明戰に於ける早大の如く力の対抗に大胆なプレイを混用して早明戰後多少とも弛緩状態にある早大イレブンの裏をかき遂に引分けの大熱戰を演じたのであつた。

 

斯上位三チームは各自の特徴を発揮して各試合に死力を盡したのであるが、早大は最も重大な試合に大胆なプレイを敢行せしめるだけの斗志を失はなかつたことにより、明大を降して優勝の栄誉を獲得し慶大は早大に対して限りなき闘志を沸騰させて早大の心胆を寒からしめたのだった」

 

以上のように加納氏は昭和十四年度リーグ戰の総評を書いている。この文中にもあるように観衆の理解が深まったと云うことは事実であり、各試合共相当数の観衆が後楽園野球場に押しかけて来たのである。そして一プレイ毎に歓声を挙げて自分のひいきするチームを応援しており、この調子ではあと数年も経過すれば六大学野球のリーグ戰にも匹敵する位の人気が出て来るのではないかと思はせる位であつたが、日本の国情は戰爭が益々苛烈となり外来スポーツの禁止と云う所まで進み、やっと日本において芽を吹き出したフットボールもこの辺であえなく中止の気運が高まり、せっかく出て来た人気もダウンせざるを得ないような状態になつた。

 

又東京学生米式蹴球聯盟でも日本の当時の卋情に合うように色々と気をつかい、人気の高揚に努めたのである。その実例の一つとしてそれまでNCAAの規則をそのまま準用していたフットボールのルールも一部日本の国情に合うように改正した。

 

例えば審判に対する抗議は一切認めない、即ちラグビー式に審判絶対にするとか、或はタイムアウト時フィールド内に飲用水の搬入を禁止するとか、日本人の気質に合わないような点は日本流に改正したのである。

これは加納氏に云わせれば精神的鍛錬をもスポーツの重要要素とすると云っているが、事実その当時の青少年に対する精神的或は肉体的鍛錬の必要性は卋間一般に大きくとなえられておりスポーツは娯楽ではなく鍛錬の為に行はれるものであり、文部省や内務省からも強く要望されていたのである。この要望に従はないものは圧力を受けるのであらゆるスポーツは娯楽の域から修練、鍛錬のものに変わって来たのである。そのためにはNCAAの規則も一部変更して当時の日本の国情に合うようにしなければならないような状態になつて来ていたのである。

 

加納氏も書いているように優勝決定戰とでも云うべき早明において最後に明治の怒涛のような見事な攻撃により数度のダウンの更新を行い、早大ゴール三ヤード迄迫り最後のプレイでFB大前のファンブルによる失敗は確かにフットボールの歴史に残る名勝負であつたことであるが、これは想像する所勢に乗ってた明治は早稲田のゴールラインを目前にして、しかもラストプレイであるのでスナップバックをする明治のセンター寺田もスナップバックより前面にいる早大のディフェンスラインをチャージすることの方に気をとられ、スタートを早くした為にスナップバックに力が入りすぎ、バックのセンタープランジのシグナルの場合にはスナップバックのボールを軽く浮かせるようにスナップしFB或はHBが前進のスタートをして来るのに合せるようにしなければ成功しないのに、前面の早稲田のディフェンスラインに穴を開ける方に精神が集中しており、従つてスナップにスピードがついたのと同時にFBの大前もラストプレイであると云う意識が強く働き、これで同点或は優勝出来ると云う気がはやり、その為に固くなつてボールを胸に当ててファンブルしてあたらチャンスを逸したのである。非常に高価なファンブルとしてフットボール史上に残るものであると同時に名勝負としても史上に残しておきたい試合であつた。

 

これで昭和十四年度東京学生米式蹴球聯盟のリーグ戰は終了したのである。それと同時に東京学生米式蹴球聯盟と云う名称もこのシーズンを最後として消え去ったのである。これはまだこの時点では誰もが予想し得なかつたことであつたが、戰爭が激烈になつて来たことにより外来語の排折となり、米式蹴球の米はアメリカであると云うことにより翌年即ち昭和十五年からは東京学生鎧球聯盟と云う名称に変更したのである。勿論日本米式蹴球協会も同時に日本鎧球協会と変更したのは当然のことであつた。

 

次のページへ

一覧へ