2023.03.10
日本におけるフットボールの厂史(12) 1940~秋
お知らせ
◆ 1940(昭和15年) ◆
昭和十四年シーズンの最後は恒例の東西対抗戰をもって終了することになつた。この年は第三回目で初めて関西で行はれることになり、一月元日花園競技場で行はれることになつた。前にも書いたように毎年一月元日には古くから慶応と京大のラグビーの定期戰が行はれるのが定例になつており、これが関東では神宮競技場、関西では花園ラグビー場と隔年に挙行されていた。
日本米式蹴球協会の東西対抗はアメリカ本国におけるボウルゲームに匹敵するものだけに、アメリカと同様毎年一月元日に行うことに定められており、慶京ラグビー戰と交互に関東と関西で挙行することになつていたので昭和十五年一月元日の慶京ラグビー戰は東京の神宮外苑で行はれる年であつたので、従つてフットボールの東西対抗戰は関西花園ラグビー場で行はれる順番であつた。
その出場メンバーが十二月下旬発表された、それによると
関東軍監督:島本忠治(慶応コーチ)、マネージャー太田義雄、エンド山片(慶)、富山(明)、野村(早)、作前(法)、タックル小黒(立)、福島(早)、福田(慶)、中楯(早)、ガード伴(明)、藤岡(早)、坂本(明)、風早(早)、センター中山(早)、上田(立)、ハーフ藤堂(慶)、浜崎(明)、張(早)、笠原(明ラグビーOB)、フルバック名桑(早)、畑(明)、クォーターバック福田(早)、島袋(立)
関西軍コーチ:島盛夫(KRAC)、主将藤本(関大)、エンド藤本(関大)、小林(関大OB)、河原(法OB)、幸(関大)、タックル東山(関大)、小山(関大)、河野(関大)、花田(KRAC)、山田(KFC)、花岡(明OB)、ガード清水(明OB)、村沢(関大)、楠部(関大)、小河(関大)、センター吉岡(関大)、中野(関大)、林(KRAC)、クォーターバック坪井(関大)、灘波(KFC)、ハーフバック東轟(関大)、山内(関大)、岡村(関大)、荒木(KFC)、フルバック灘波(関大出)、奥野(関大)
第三回東西対抗米式蹴球大会 昭和十五年一月元日 於花園ラグビー場
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
関 東 |
0 |
6 |
7 |
19 |
|
|
32 |
|
関 西 |
0 |
0 |
0 |
0 |
|
|
0 |
| 関 東 |
|
関 西 |
| 当 山 |
LE |
藤 本 |
| 福 島 |
LT |
本 山 |
| 坂 本 |
LG |
清 水 |
| 寺 田 |
C |
吉 岡 |
| 風 早 |
RG |
楠 部 |
| 福 田 |
RT |
河 野 |
| 野 村 |
RE |
河 原 |
| 島 袋 |
QB |
坪 井 |
| 浜 崎 |
LH |
上 島 |
| 張 |
RH |
山 上 |
| 畑 |
FB |
中 村 |
| 交替
(関東):町田、小黒、伴、中山、藤岡、大浜、山片、福田、和田、藤堂、名桑
(関西):小林、古山、村沢、中野、小河、花岡、幸、灘波、轟、山内、茨木、魚野、灘波二 |
この試合をもって昭和十四年のフットボールのシーズンは完全に予定通りのスケジュールを終了した。
この年の一月二十一日には東京学生鎧球聯盟のリーグ戰上位三校即ち早稲田、明治、慶応のチームが大阪朝日新聞の招待により関西大学と四校で甲子園南運動場において関西におけるフットボールの認識を深める為に公開試合を挙行した。
早稲田対明治の試合と慶応対関大の試合を行い、東京ではすでに観衆も多数集まって隆盛の情光を示して来ているのに、関西においては関西大学一チームの為もあつてフットボールの人気も殆ど無いような有様であつたので、その啓発の為に行はれたものであつた。
又関西においては同志社大学が関西大学の努力によってチーム編成の傾向にあつたのでこれに対する刺激を与えるのも一つの試みであつた。そしてこの四大学対抗戰は関西に大きな影響を与えて観衆もふえ、又この年の秋には同志社大学が正式にチームを編成し、長い間関西において孤軍奮闘していた関大によき相手が出来て関西においても試合数が益し人気も向上して来た。
一方この昭和十五年には東京においても日本大学がチームを編成した。これは明治のラグビーのOBの笠原恒彦氏が明治を卒業後直ちに日活映画に入った為、ラグビーの試合には出場することが出来なかつたのでフットボールの試合に出場していたが、彼が日大にフットボール部を作ることに専念し、又他の五大学もこれに応援して日大の二卋古谷等を中心にチームを編成して、秋には東京学生鎧球聯盟に加盟した、この為に東京では待望の六大学となり一段と賑やかになり又試合数も当然ふえた。
この昭和十五年は日本においては紀元二千六百年に当り、この年の二月十一日の紀元節には国民的大祝賀会が全国的に盛大に行はれた。一方においては日支事変は益々深みにはまり込み、見透しもつかないような状態になつて来た。日本陸軍は広大な中国大陸に大軍を送り込み国内の軍国調は益々拡大され、毎日のように町には出征兵士を送る歌が流れていた。吾々のフットボールのO.B聯中も殆ど軍隊に借り出され、兵役の義務について行つた。
なお前述のように東京学生鎧球聯盟の昨年度の上位校早稲田、明治、慶応の三大学は関西にフットボール普及の為に関西に遠征したがその成績は
1月21日 甲子園南運動場
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
慶 応 |
0 |
0 |
0 |
14 |
|
|
14 |
|
関 大 |
0 |
0 |
6 |
0 |
|
|
6 |
であり早稲田対明治はオープン戰として行はれた。
戰局は益々激烈になり多くのO.Bは兵役に狩り出されて行つたことは前述の通りであつて、かく云う私もご多分にもれず甲種合格現役兵として入隊したのである。従つてその間新聞を読むこともラジオを聞くことも出来なくなり、卋間一般のことは勿論、フットボールのことなど気にはなつてはいたが知る由もなかつた。それで昭和15年から太平洋戰爭の終結した昭和20年迄記録の持ち合わせがない。何れ時機を見るかしてその間の記録だけでも書かなければならないと思つている。この4年間の間断片的な記録が少々あるので、それをとりあえず記することにする。
◆ 1940(昭和15年) 秋 ◆
昭和十五年十一月二十四日の新聞の切り抜きが一片ある。これは朝日新聞の加納氏が書いたもののようである。
「慶大快勝す 早大前衛撹乱さる」と云う見出しで
「東京学生鎧球リーグ早大対慶大の試合は二十三日午後三時から審判梶谷(主)、島(副)、坂口(線)、福田(計時)四君の下に後楽園で挙行、慶大快勝し制覇確実とみられるに至つた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
慶 応 |
6 |
0 |
0 |
7 |
|
|
13 |
|
早稲田 |
0 |
6 |
0 |
0 |
|
|
6 |
| 慶 応 |
|
早稲田 |
| 富 田 |
LE |
津 元 |
| 辻 田 |
LT |
土 井 |
| 渡 辺 |
LG |
藤 岡 |
| 吉田(辰) |
C |
野 呂 |
| 吉田(明) |
RG |
風 早 |
| 谷 藤 |
RT |
景 山 |
| 山 片 |
RE |
山 田 |
| 松 雄 |
QB |
安 田 |
| 田 沢 |
LH |
藤 本 |
| 遠 見 |
RH |
土佐谷 |
| 佐 藤 |
FB |
名 桑 |
| 2 |
TD |
1 |
| 1 |
STP |
0 |
| 0 |
FG |
0 |
| 交替
(慶応):折笠、岡田、緒方
(早稲田):福島、野村、加藤、笹井、伊森
ダウン更新 慶5、早10 突進距離碼 慶222、早178
前投完成 慶9(20)、早4(16) 前投距離 慶98、早80
失落球 慶0、早1 反則 慶1、早0 |
慶応の快勝は中央線を自陣に越されればパントするといふ堅実な戰法を採つたことに因るが自他共に許す強豪早大の前衛を圧したのみか、この鉄壁を撃破して早大の後陣をも脅かした慶大前衛の快斗は絶賛に値する。
「法日は引分」の見出しで早慶戰に引続いて、「関東学生鎧球法大対日大の試合は二十三日午後零時半から後楽園球場で沖(主)、島(副)、井上(線)、鈴木(計時)四君審判、法大先蹴で行はれ13-13の同点で引分けとなつた。
| Team |
1Q |
2Q |
3Q |
4Q |
TB |
TB |
Total |
|
法 政 |
0 |
6 |
0 |
7 |
|
|
13 |
|
日 大 |
0 |
7 |
0 |
6 |
|
|
13 |
| 法 政 |
|
日 大 |
| 田 原 |
LE |
黄 |
| 黒河内 |
LT |
松 島 |
| 山 田 |
LG |
杉 本 |
| 佐々木 |
C |
古 谷 |
| 深 江 |
RG |
鈴 木 |
| 尾 崎 |
RT |
小 貝 |
| 作 前 |
RE |
松 村 |
| 國 本 |
QB |
魚 住 |
| 横 井 |
LH |
村 本 |
| 中 上 |
RH |
大 川 |
| 中 島 |
FB |
金 |
| 2 |
TD |
2 |
| 1 |
STP |
1 |
| 交代
(法大):興那原
(日大):梅沢、髙野 |
なお、この昭和十五年からは名称が米式蹴球から鎧球と変つた。これはその後に文部省からの指令によつて例えば”スキー”を雪艇としたりホッケーを枕球と変えたり強制的に変名をさせられたものではない。
この文部省の指令は外来語を排除すると云う目的によつたものであつてその点なら米式蹴球と云うのは立派な日本語である筈であるから文句は無い筈である。この文部省の指令の出る前に協会では自発的と云うと一寸おかしいが、鎧球と名称変更をしたのである。
その理由は米式の”米”は当然にアメリカの意味である。それが気にかかつたのである。それは日本は中國と國交断絶こそしていないが交戰中で、日本陸軍は中國大陸奥深く迄進攻中である。そして更に戰線を拡大せざるを得ないような状態になり、國内では前年大政翼賛会が成立して政治はこの大政翼賛会によつて動かされ、その第一として國家総動員法が制定され挙國一致して対中國戰爭に突進中なのである。そして毎日街には「出征兵を送る歌」が流れ、駅頭には日の丸の旗が振られて多くの若者達は中國大陸の前線へ送られていつた。日本は戰時色一色に塗りつぶされて、新聞、ラジオは戰意昂揚をあほる報道を繰えしていた時代であつた。
然しまだ中國以外の國とは昭和十四年の夏のノモンハン事変でソヴィエートと交戰した以外は戰爭はしていなかつたが、日本に対する諸外國の干渉は激しいものであつた。即ち対中國戰斗は即時停戰し、日本軍は中國大陸から撤兵すべしと云うものであつた。日本は昭和十四年には國際聯盟を対中國戰爭の完遂の理由の下に脱退していたが各國からの干渉は激しいものであり、特にアメリカ、英國は日本に対しての経済封鎖を挙行した。これが即ちABCDラインである。Aは勿論アメリカで、Bはブリティシュ英國であり、Cは中國、Dはダッチ即ちオランダである。元々資源小國の日本はこのABCDラインによる経済封鎖には大きな打撃を受け、これを打破すべく第二次卋界大戰へ突入して行くことになつたのであるが、まだこの昭和十五年はその前年であつた。
以上のような状態下にあつて吾國はアメリカに対しては敵対感情が多に生じて来ていた時期である。このような時に”米國式”とは云つていないが”米式”の”米”と云う文字をつけているのは気の引けるものがあつたのであろうと同時にこのような時に逆に勇ましい、戰斗の用具である”鎧”と云う文字を使つた方が一般的にもよいのではないかと云うことから日本協会で”鎧球”と変名したのである。”鎧”とは勿論ユニフォームの下に着けるショールダーパッドを意味したものである。この時”兜球”と名付けた方がもつと面かつたのではなかつたろうか。ヘルメットをかぶるスポーツはその時代他には無かつたのであるから、或は”甲球”としてもよかつたと思はれる。
然し鎧球と云うことに定つたのであるが、これは文字作りの名人である故加納氏の案ではないだろうか。加納氏はラグビーにもフットボールに多く名語を作つている。例えばラグビーではドロップゴールのことを落球快蹴と云つたり、フットボールのロング・フォワードパスを長前投、エンドランを翼迂迴戰法とか面白い云葉を多く作つた人であつた。
この加納氏の発案によつて鎧球なるユニークな名称がつけられたのであろう。とに角、文部省の指示による外来語廃止以前にフットボールは既に変名していたのである。なおこの年は紀元二千六百年を記念して東京オリンピック開催が決定していたのであるが、日中戰爭の長期化によつて挙行することは不可能となり、前年國際オリンピつク委員会に辞退を申請し、この年のオリンピつクは中止となつた。又ヨーロッパでは第二次卋界大戰が拡大しとてもオリンピックなどやつて居られるような情況ではなかつた。
フットボールのO.Bも徴兵検査の結果続々と甲種合格となり、兵役に服して行つた。立教でも昭和十四年卒業のO.Bは、二卋の坂口はアメリカ國籍と日本國籍の二重國籍を持つているので兵役には服さなかつたが、他の細田、鈴江、池上、栗林、服部の5名は何れも名誉ある甲種合格であつてそれぞれ兵役に服した。
私も昭和十五年始めに入隊することになつた。入隊先は札幌にあつた歩兵第二十五聯隊であつた。丁度入隊期日が旭川の歩兵第二十六聯隊に入隊する池上と同日であつたので、二月末の寒い日の夜行で、池上ともう一人陸上競技部O.Bの羽木光三郎(旭川歩兵第二十八聯隊へ入隊)と三人で上野駅発で北海道に向つた。上野駅頭には校旗を先頭にフットボール部と陸上競技部の現役が約50名送りに来てくれ、駅で校歌を斉唱して吾々を送つてくれた。
そして翌日夕刻札幌着で皆一応札幌に一泊し、その夜はおそく迄アイスホッケーの小柳と四人で札幌最大のキャバレー「エルム」で飲んでお互いの健康を祈願し合つた。翌朝池上、羽木、小柳の三人は旭川へ向けて札幌を出発して各自所属の部隊に入隊した。その後殆どの者は昭和二十年八月十五日の終戰の日迄兵隊生活を続けたが、幸いにもその年のフットボールのO.Bは全員が復員出来て戰死者は一人も居なかつた。
このように卋は特に戰時色一色になり、兵隊に行かない者は男ではないと云うような時代であつた。
それで私の記録も昭和十五年から昭和二十年までは途断えているのである。前述したように一応これを書き終わつてから図書館にでも行つて古い新聞を調べてこの空白の夏を埋めるつもりである。
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