◆ 1941(昭和16年) ◆
昭和十五年の優勝校は昨年より力をつけて来た慶応が初めて王座についた。これは慶応が創部当時樹てた五ヵ年計画が実つたことと早稲田、明治の両大学に日米の國際関係で二卋の入学者が少なくなり二卋に頼ることが出来なくなり実力が落ちて来たことに原因があるものと思はれる。
昭和十六年一月元旦には例によつて明治神宮外苑競技場で東西対抗戰が行はれた。
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2023.03.10
お知らせ
◆ 1941(昭和16年) ◆
昭和十五年の優勝校は昨年より力をつけて来た慶応が初めて王座についた。これは慶応が創部当時樹てた五ヵ年計画が実つたことと早稲田、明治の両大学に日米の國際関係で二卋の入学者が少なくなり二卋に頼ることが出来なくなり実力が落ちて来たことに原因があるものと思はれる。
昭和十六年一月元旦には例によつて明治神宮外苑競技場で東西対抗戰が行はれた。
| Team | 1Q | 2Q | 3Q | 4Q | TB | TB | Total |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 関 東 | 20 | 19 | 0 | 7 | 46 | ||
| 関 西 | 0 | 0 | 0 | 12 | 12 |
| 関 東 | 関 西 | |
| 富 田 | LE | 本 山 |
| 福 島 | LT | 竹 内 |
| 古 関 | LG | 古 山 |
| 吉田(辰) | C | 吉 岡 |
| 吉田(明) | RG | 小 河 |
| 小 黒 | RT | 中 村 |
| 山 片 | RE | 幸 |
| 安 田 | QB | 坪 井 |
| 土佐谷 | LH | 轟 |
| 浜 崎 | RH | 山 内 |
| 佐 藤 | FB | 山 上 |
| 交替
(関東):緒方、谷藤、小堀、風早、ブラインズ、深江、池田、津元、鈴木、遠見、グリーン、國本、福田 (関西):鈴木、丹治、山下、三浦(和)、山田、岩井、前田、三輪、三浦(清)、米合、伊藤、今西 |
||
立教からはこの試合には小黒、小堀、鈴木の三人が出場している。この昭和十五年と云う年はフットボール界においても色々と変化があつた。それは既に前に書いたように名称が”鎧球”と変つたこと、又東京学生鎧球聯盟に新らしく日本大学がチームを組織して加盟し六大学となつたこと、更に昭和十年から関西においては唯一のチームとして相手不足に不満をかこつていた関西大学に新しく同志社大学がチームを編成し、関西も二チームになり、國内においては八大学がフットボールチームを持つことになつたことである。
そしてフットボールも人気を得て来てこれからは益々隆盛になつて行くことが予想されたし、又その気運も見えて来て将来に明るい光が見えて来たのであるが、それとは無関係に社会情勢は益々暗いものになつて来たことも前述の通りであつた。
このような情勢下の昭和十五年六月十五・六の両日には「紀元二千六百年奉祝」と銘打つて明治神宮外苑競技場において六人制フットボール大会が開催された。これはフットボール普及を目的としたものであつて、ラグビーに七人制があるのを眞似して考案されたもので日本独特のものであつた。時間も短かく、ライン三人、バック三人の六人の編成で行うフットボールであつた。その他のルールは正規のフットボールと殆ど同じものであつた。然しこれも翌昭和十六年に行はれてそれ以降は中止となつた。昭和十六年は日米開戰の年である。
この年リーグ戰では慶応が初めて優勝したのである。このリーグ戰の間、早稲田と慶応は関西遠征を行つた。即ち十月二十日に西宮球場で行はれ、早稲田対関大戰と慶応は創立間もない同志社と試合を行つた。結果は
早稲田 29-0 関 大
慶 応 55-0 同志社
又十二月二十二日には明治が関西遠征を行い甲子園南運動場で関大と試合を開催したが実力をつけ出した関大に敗北した。
関 大 12-7 明 治
| 関 大 | 明 治 | |
| 本 山 | LE | 小 田 |
| 福 井 | LT | 奈 古 |
| 古 山 | LG | 松 平 |
| 吉 岡 | C | 寺 田 |
| 小 河 | RG | 川 島 |
| 竹 内 | RT | 池 田 |
| 幸 | RE | 李 |
| 山 上 | QB | 福 永 |
| 轟 | LH | 和 田 |
| 山 内 | RH | 川 島 |
| 坪 井 | FB | 小 花 |
そして昭和十五年のシーズンの最後の東西対抗戰は、昭和十六年一月元旦に明治神宮外苑競技場で行はれた。
| Team | 1Q | 2Q | 3Q | 4Q | TB | TB | Total |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 関 東 | 20 | 0 | 19 | 7 | 46 | ||
| 関 西 | 0 | 0 | 0 | 12 | 12 |
| 関 東 | 関 西 | |
| 富 田 | LE | 本 山 |
| 福 島 | LT | 竹 内 |
| 古 関 | LG | 古 山 |
| 吉田(辰) | C | 吉 岡 |
| 吉田(明) | RG | 小 河 |
| 小 黒 | RT | 中 村 |
| 山 片 | RE | 幸 |
| 安 田 | QB | 坪 井 |
| 土佐谷 | LH | 轟 |
| 浜 崎 | RH | 山 内 |
| 佐 藤 | FB | 山 上 |
| 交替
(関東):緒方、谷藤、小堀、風早、ブラインズ、深江、池田、津元、鈴木、遠見、グリーン、國本、福田 (関西):鈴木、丹治、山下、三浦(利)、山田、若井、前田、三輪、三浦(清)、伊藤、今西、米今 |
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関東軍はこの東西対抗戰には四聯勝したのである。
然しこの東西対抗戰もこの第四回を以つて中止になつた。即ちこの昭和十六年一月元旦の第四回が最後になつたのである。この昭和十六年は十二月八日に日米開戰の年であつた。勿論この第四回開催日の一月元旦にはそのようなことは夢にも想像しなかつたことであるから当然昭和十七年一月元日には関西の花園球技場で第五回東西対抗戰が開催されるものと皆思つていたことであろう。
然し現実にはその年の夏頃から日米の國際関係は険悪の度を増し、遂に十二月八日日本海軍のハワイ島急襲、およびマレイ半島には陸軍の進撃開始等全面的に交戰状態に入り、遂に日米國断絶となり、日本も第二次卋界大戰の渦中に巻き込まれていつた。こうなるともう今迄のような対中國戰とは全く様想が変わつて来て、今迄以上に國内には緊張感がみなぎり、”鬼畜米英”の文字は街に氾濫し又”撃てし止まん”の云葉も人の口に出るようになつて来た。國内には完全に國家総動員が施行され、戰時物資はもとより、國民の食料から衣料等日用物資も統制されてしまつた。こうなるともう無用の旅行等も制限されるので遠征等不可能になつてしまつたので東西対抗戰も中止をせざるを得なかつたのである。
フットボールの創設者であり又協会及び関東学生聯盟の理事長をしていたポール・ラッシュ氏も敵國人として目黒に作られた敵國人収容所に収容され自由を束縛されてしまつた。それでポール・ラッシュ氏の後任として加納氏を理事長に推し、爾後の行事を進行して行くことになつた。
ポール・ラッシュ氏は翌昭和十七年に日米収容者交換の最後の交換船で二十年の年月を過した日本を去つてアメリカに送還されたのである。この時東京学生聯盟の現役およびO.B(主として二卋)が金を出し合つてポール・ラッシュ氏に餞別を送つた。このことはポール・ラッシュ氏が終戰後再び聯合軍の将校となつてマニラから日本に来た後に”あの時の餞別金の本当に有難くうれしかつた”と述懐していた。余談ではあるがこの最後の収容者交換船には駐日米國大使のグルー氏も一緒であつて、この船には開戰直前に日本に輸入されスーパーインポーズ迄入れて上映するばかりになつていたが日米開戰となり敵國映画は上映出来なくなつたあの名画”風と共に去りぬ”が積み込まれ、船で上映し旅情をなぐさめたのである。
私が昭和十九年に東京師団司令部にいた頃司令部内では敵國映画も毎週一回上映して司令部内部の者だけに見せていたが、この中に”風と共に去りぬ”が上映されたことがあつたが、これは輸入されたものではなく、軍がフィリッピンを占據した時フィリッピンにあつたフィルムを日本に持つて来たものであつた為、スーパー・インポーズが入つていなかつた。
◆ 1941(昭和16年) ◆
昭和十六年は吾國にとつて大変な年になつたが、それ以前の二月には関西において関大の努力によつて関西学院大学にフットボールチームが誕生した。対米國との國際関係が緊迫している時期に日本に昨年に引続いて、又アメリカンフットボールのチームが出来たとは何か皮肉めいたものがあるが、然しそれだけフットボールが一般に認識されて来たと云う見方も出来るのではなかろうか。もつともアメリカンフットボールとも米式蹴球と云う名称をも使はず、昨昭和十五年秋のシーズンから改名した鎧球と云う名称で「関西学院大学報國団鎧玉班」と云ういかめしい名前である。戰時中であるので各大学とも運動部は報國団と云う名称に変つていた。
何れにしても関西では昨年の同志社に続いて関西学院と急にチームが創設され三大学となつて何れも関西鎧球聯盟に加盟して大学リーグ戰が出来るようになつたことは、日本のフットボールの隆盛の勢を徐々にではあるが示して来たのである。
関西学院が加盟したことにより日本鎧球協会の加盟大学は関東六大学、関西三大学の計九大学と横浜及び神戸の外人クラブの十一チームとなり、これからと云う構えであつたが、國内情勢は前述の通り益々泥沼状態に落入り、それに対する諸外國の日本に対する干渉も激しくなり特にアメリカとの関係は一触即発の様相を示して来た。
この様な状態は当然学生の活力にも大きく影響を与えずにはいなかつた。そしてそれはスポーツ界にも及びこの年の春に「学生スポーツの同一県以外に亘る対抗試合、並びに合宿遠征等は禁止する」と云う文部次官通達が出され、スポーツは小規模のものに押え込まれてしまつた。もつともこの通達は秋には幾分緩和されて「隣接府県の対外試合のみは許可する」との方針に変つたが、それにしても時局の厳しさはスポーツ界も例外ではなく襲つて来たのである。
然しフットボールは秋のシーズンも無事終了し、関東では明治、関西では関大が優勝してその年を終了した。
然しこの年即ち昭和十六年十二月八日には遂に日本とアメリカは交戰し「大東亜戰爭」と名付けられた「太平洋戰爭」に突入し第二次卋界大戰の一員となつてしまつた。
この昭和十六年の七月立教のフットボール部長をしていた小川徳治先生も「関東軍特別大演習」の要員として満州に召集され、十一月にはすでに南方に転進し「太平洋戰爭」突入に待期していたのである。昭和十六年は未曾有の困難の内に暮れて昭和十七年を迎えたのである。この年の第五回「東西対抗戰」は前にも述べたように戰爭の為中止になつてしまつた。そして戰爭が終る迄再開されることなく終つてしまつたのであるが、この年の一月二十五日にはどうした訳か明治と慶応が関西遠征を行い、甲子園球場で関大、関学と試合を行つている。
| Team | 1Q | 2Q | 3Q | 4Q | TB | TB | Total |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 明 治 | 7 | 0 | 14 | 18 | 39 | ||
| 関 大 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 明 治 | 関 大 | |
| 小 田 | LE | 北 尾 |
| 小 川 | LT | 丹 治 |
| 川 島 | LG | 印 南 |
| 寺 田 | C | 西 川 |
| 二階堂 | RG | 山 下 |
| 池 田 | RT | 福 井 |
| 若 竹 | RE | 本 山 |
| 下 垣 | QB | 庄 野 |
| 元 山 | LH | 今 田 |
| 山 平 | RH | 伊 藤 |
| 小 花 | FB | 難 波 |
| Team | 1Q | 2Q | 3Q | 4Q | TB | TB | Total |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 慶 応 | 7 | 6 | 0 | 7 | 20 | ||
| 関 学 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
そしてこの年は春と秋の二シーズン制を東西ともに採用した。これもチームがふえ一気に隆盛にもつて行こうとしたのか、或は戰爭の為何時中止の運命を迎えるか不安があつたのでこのようなニシーズン制にしたのか解らないが、何れにしても理事長のポール・ラッシュ氏がいたら許可されなかつたことであろう。それと云うのもポール・ラッシュ氏の理想として日本のスポーツ界にはシーズンが不明朗であるのでそれを啓蒙する目的でフットボールの移入に全力をそそいだ人であるからである。
◆ 1942(昭和17年) ◆
この昭和十七年春のシーズンの試合は主として神宮競技場で行はれたが、四月十八日の試合の最中にアメリカの太平洋機動艦隊から発進したドゥリットル指揮の飛行編隊が東京を空襲し早稲田地区が主として被害を受けた。これが最初の空襲であつた。これに対し日本海軍はアメリカ太平艦隊を撃滅すべくその年の夏ミッドウェー攻撃を行い逆に大損害を受けそれから日本の軍事力は消耗して行き、遂には敗戰の直接の要因となつたのである。とにかく日本國土最初の空襲の日に初めてニシーズン制を採用したフットボールはリーグ戰を行つていたのである。
前年昭和16年には総動員下の我國では学生スポーツに対して文部省の次官通達によつて同一県内以外の対抗試合並びに合宿、遠征などの禁止が命令された。夏の全國中等学校野球大会(甲子園)もこの年から中止された。所がこの通達も九月には緩和され「隣接府県の対抗試合のみは認める」と変更されている。
◆ 1943(昭和18年) ◆
明けて昭和十八年三月二十九日には、文部省体育局は「戰時下学徒体育訓練実施要綱」なるものを通達、戰技を中心とするスポーツの重点種目以外は全て廃止されることになつた。即ち柔道、角力、剣道、銃剣道のようなスポーツは良いが、それ以外の外来スポーツは全て廃止されることになつたのである。野球もラグビーも、そして勿論フットボールも敵性スポーツであると云うことによつて、この通達で廃止される運命になつたのである。
それで日本協会としてもこの通達を受入れなければならなくなり役員会を開催し対策を講ずる必要が生じ、昭和十八年五月二十三日に関東、関西の役員、主将、マネージヤー等を有楽町の東宝地下のパーラーに召集し協議をし、次の六項目の決定を見たのである。
1.アメリカンフットボールと各大学の鎧球部をあくまで存続させるため戰局好転までフットボールは一時休止し、海軍斗球に転向すること。但し全面的に中止すると自然消滅のおそれがあるため、年にニないし三回の試合を行う。
2.現役学生のみで東西統一した海軍斗球聯盟を設立する。
3.海軍斗球研究会を設立(顧問及び幹部に海軍航空隊の佐官級の将校を委任する)すること。
4.大学海軍斗球部員によつて海軍斗球を中等学校及び実業団に普及させる。
5.海軍側の依頼により各校ルール改正を研究する。
6.試合は軍隊式に行う。
以上の項目を決定した。
要するに実体はあくまでもフットボールにあるが外見上は海軍斗球をもつてカモフラージュすると云うことであつた。
ところでこの海軍斗球と云うのはどのようなものであるかと云うと、日本の海軍航空隊が少年航空兵のスポーツとして考案したもので、その発祥は土浦航空隊と云はれている。何故海軍斗球と云うかと云えば、斗球と云う名称は既にラクビー・フットボールが文部省通達により敵性用語の禁止により斗球と名称を変更していたので、それと区別する為に海軍と云う言葉を上につけたのである。要するにこの競技はラクビーとサッカーとフットボールとバスケットボールを混ぜ合せてそれを簡畧化したものと考えればよい。
この海軍斗球の解説を昭和十七年十一月二十一日(土曜日)の朝日新聞に(加納氏と推測される)書いているのでそれを引用して見ると次の様である。
「海鷲創案の闘球航空戰象る必殺競技」と云う見出しで
「無敵海鷲の搖籃、土浦海軍航空隊に豪快奔放、文字通り我が海軍魂を躍如たらしめる新しい球技「斗球」が創案され、十九日同校庭で、やがて大空に羽搏く雛鷲によつて壮烈な競技が行はれた。体操服一枚、紅白の鉢巻に敵味方に分かれた雛鷲がかつての大学ラクビーの名選手、岡倉(立大出)、末弘(東大出)などの予科練習生を交へて赭顔を紅潮させ汗みづくになつて競技場一杯に展開する肉弾戰、捨身の体当りは「総て航空戰を象どつて考案された」といふだけあつて壮型無比、球を抱いて敵陣に殺到するのは、一発必中の爆弾を抱いた爆撃機が敵艦の致命部に必殺の体当たりを決行する気概を現はすものであり、また他の競技員はこれを守る戰斗機であり、身を挺して敵を撃滅する攻撃機の役割を果すもので海鷲魂の育成にうつてつけの競技である。
ここに競技の解説を試みる。競技は従来のラクビー、鎧球、蹴球、籠球の長所をとり入れ、これにわが海軍独特の共同聯繋、飽くなき突撃精神を盛つた団体競技である。土浦海軍航空隊体育科がこの斗球を創案した狙ひは、これまでの球技が規則的にも、技術的にもむづかしい点が多く、一般隊員に普及奨励するには幾多の困難が伴ひ、勢い特定のいはゆる選手制にでもよらなければ出来なかつた数点を除き、全隊員が何時でも簡單に試合を楽しみ、逞しき心身練成にいそしむことが出来るやうにといふ集団訓練に重点を置き、更にボール、靴などの革製品の資材難を克服し旺盛な敢斗精神、鉄石の肉体を鍛へ上げようとするにある。
▽競技場=図の如きもので設備は白線で示す。
▽競技員=前衛七名、中衛五名、後衛三名の十五名、増自由。
▽服装=敵味方判ればよい、靴自由。
▽ボール=蹴球用又は送球用を使ふのを例とするがラクビー用でもよい。
▽審判員=主審一、副審(兼線審)二名。
▽競技時間=二十分を標準とする。
▽競技方法=中央円内の中心に球を置き、先蹴側が敵陣に向け「置蹴り」を行ひ試合開始。敵の妨害を排除しつつ首尾よく接敵地帯、突撃地帯を突破し敵側の決勝線上の本陣の地上に手で(両手でも片手でもいい)球をつければ命中球で三点、本陣区割の陣翼地上に球をつければ有効球で一点、得点ごとに再び蹴出しで試合を継続、所定の時間一杯の得点で勝敗を決する。
▽競技規則=(イ)接敵地帯では蹴出しと同時に敵味方共球を蹴り、投げ、持つて走ること何れも自由。殊に前方にある味方にもパスすることも出来る。(ロ)相手側の球を持つた者に対し妨害を加へ球を奪ひとることが出来る。妨害は「抱き止め」ることと「体当り」即ち相手側の下肢を両手で抱き倒すラクビーのタックル、または投げ倒してもいい。蹴り、擲り後から押し倒すことだけが出来ない。球を持たぬ相手側の妨害は反則。(ハ)突撃地帯に入ると今度は球を自分より前方の味方に投げ、又は蹴つて渡すことが禁じられる。妨害の範囲が拡大され球を持たぬ相手側に対してでも妨害ができるから一段と活気のある攻防戰が展開される。
▽ 競技進行と反則処置=(イ)「置蹴り」の際、相手側は球から七米五○以内に近づくを許さず。また敵味方とも蹴り出しまで中央線を越えて相手方に侵入できない。反則あれば相手側から蹴り出す。(ロ)混戰状況となるか又は危険を予知される時は、主審は競技を中止、その場で主審投(籠球の開始同様双方一名づつの競技員が、主審が投げ上げた球を叩き落とす)により再開。(ハ)球が側線外に出た時は球を出した相手側が側線外から随意投をする。この場合相手側の決勝線の方向には投げられない。(ニ)接敵地帯は妨害以外に反則はなく、突撃地帯では接敵地帯から進入する際、球を持つて走ることを原則とし、若し接敵地帯で蹴り又は投げた球が突撃線を越えた時は、その場で主審投とする。反則は球を前方の味方に蹴り、投げた場合で、反則は何れも随意投とする。(この場合も前方へ投げることは出来ない) 又側線から出た球は随意投とするが相手側の決勝線の方向には投げられない。大体以上のやうなもので、ひと通り説明を聞けば容易に競技を楽しむことが出来る。
この競技がやがて中等学校に、青年学校にそして少し工夫されたら國民学校にも普及され若き青少年の心身練成に役立つ日も遠くはないだらう。”と以上の様に解設をしグラウンドの図面が出でいる、グラウンドは下図の通りである。
要するにラクビー、サッカー、バスケットボール、フットボール等の在来の団体スポーツはルールが困難で仲々初心者には呑み込めないのでこれらを混ぜ合せて簡單なルールを作つて海軍の予科練を主とした若い兵に団体の格斗競技を行はせて心身の鍛練と団結心の養成に役立たせようとしたものであつた。そして土浦を始め海軍の航空隊基地において行はれたのであつた。それ以後民間の大企業においては、20才以下の身体虚弱者に対して、少なくとも徴兵検査時に第二乙種合格兵になるまでの体力作りをする為、健民修練を実施するように政府からの指令があり、各企業は人手の足りない上に製産向上に鞭打たれている時期にこれらの該当者に集合訓練を行はなければならなかつたのであるが、この健民修練の実施課目の中にもこの海軍斗球は他の体操、教練と同様に加えられており、健民修練三ヵ月の合宿訓練の間に数回行はれたのである。
これが終戰と同時に消滅して戰後全々行はれていないのは矢張りスポーツとしての魅力がなかつたことによるものであろう。たしかに戰時中に海軍によつて作られたものであると云う理由もあつて気嫌いされたこともあるのであろうが、それよりはスポーツとしては余りにも單純で面白味に欠けている為に行はれなかつたと見るので正当であろう。スポーツに限らず何でもそうであろうが長い年月をかけ多くの人が実施し、そして改良に改良を重ねて出来たものとそれを眞似て一時的に考案されたものとでは形は似ていてもそれの持つ眞の意義とは全く異質なものであるからである。
この海軍斗球は海軍の一部で行はれたのと一部の民間で行はれたのみであつて陸軍では少年兵の鍛錬用としては全く行はれなかつたのである。海軍と云う名称が付いていたから陸軍では採用しなかつた訳ではないと思うのだが、何か面白い面があるように思はれる。この海軍斗球を行うことを日本鎧球協会において決定したことは前述のような協議の結果であつて、それは表面上のカモフラージュであり各競技者はあくまでフットボールをやりたかつたのであるが、それには外部の圧力もあり又他面には物質欠亡の時代で用具ユニフォーム等も入手出来ないような状態であるので止むを得ず海軍斗球によつて心のうさを晴らしたのである。表面上は海軍斗球の試合をしているように見せていて実際にはフットボールの試合をやつていたこともあるようであつた。
それで各チームは海軍から配布されて来た海軍斗球の規則を研究し又それによつて練習にとりかかつたが、ルールの簡單なこととプレー自体が單純であるので各チーム共簡單にマスターし土浦や津の海軍航空隊の基地に行き海軍との試合を度々行うようになつて海軍との親交が深くなつた。それにはもう一つ食糧不足の時代に海軍の基地に遠征に行くと充分の食物にありつけると云うような利点もあつたからであろう。又海軍の基地に海軍斗球の試合に行つてついでにそこで逆にフットボールのゲームの紹介等も行つたこともあるようである。よく海軍からおこられなかつたものだと思はれるが、海軍と云うところは相当進歩的な所であつて、前にも書いたように昭和九年フットボールが日本に移入される数年前に江田島の海軍兵学校でフットボールを採用すべくアメリカから解説書を取りよせたり、駐米日本大使館武官がアナポリスのアメリカ海軍兵学校に行きフットボールの見学をしたりしていた事実があ
【編者注:服部慎吾氏の記録は、ここで終了しています。この後の原稿があったと思われますが、現在、所在不明です】