【近藤祐司のNDJBコラム】いよいよ始動!!(第一回)


 2月20日、ノートルダムジャパンボウル2009の記者発表会のために来日した、ルー・ホルツ氏を一目見ようと、会見場となった東京ドームホテル、天空の間はたくさんのマスコミ関係者で埋め尽くされた。
 

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 今さら、ホルツ氏のコーチとしての輝かしい実績を紹介する必要もなさそうだが、ホルツ氏は、120年以上の歴史を誇る全米最古のフットボールプログラムのひとつ、ノートルダム大学を1988年に全米チャンピオンに導いた全米でも指折りの名将である。 現在も、ESPNの人気番組「スポーツセンター」のカレッジフットボールのご意見番的存在で、アメリカでは日本の長嶋茂雄や王貞治クラスの認知度を誇る。

 ホルツ氏といえば、1986年にノートルダム大学のヘッドコーチに就任した際、まず、これまでユニフォームの背中に書いてあった選手の個人名を取り去るという改革を行ったことでも有名だ。 その伝統は、今でも“チームエフォート(努力)を第一にする”というファイティングアイリッシュのトラディションとして継承されている。

 「アメリカンフットボールのチームは“ファミリー”と同じくらい結束していないと強いチームにはなれない。」と言い切り、チームの和を第一に重んじるホルツ氏だが、彼のコーチングキャリアのターニングポイントとなった出来事は、意外なことに、1987年に日本で目の当たりにした“ある出来事”だったという。

 “コットンボウル(1987年)でテキサス農工大(TEXASA&M)に大敗した翌日、失望の中、私はジャパンボウルのために日本に来たことを今でも鮮明に覚えている。 日本に到着した翌朝、朝5時くらいに外で音がしたのでふと起き上がって部屋の窓を眺めると、ホテルの横の建設現場で労働者が全員きれいに並んで、体操(ラジオ体操)をしている姿を目にしたんだ。 そのシーンに私は衝撃を覚えた。 私はその時、チームとして最も大切なことを教えてもらった気がした。 その出来事をその後の私のコーチングに大きな影響を及ぼしたんだ。”とホルツ氏は懐かしそうに語った。

 それぞれに決められた仕事の役割は違えども、共通のゴールに向って、すべての選手が決められたことに一緒に取り組むことの重要性を日本での滞在で再認識したホルツ氏は、その翌年の1988年、あのジョー・モンタナが在籍していた1977年以来となる11年ぶりの全米チャンピオンにノートルダム大学を導くのであった。

 そんなホルツ氏は、コーチとして貴重な体験をした日本で、もう一度、試合が出来ることをとても楽しみにしているという。

 会見の最後に、ホルツ氏はこう締めくくった。

 「7月25日、名門ノートルダム大学の名に恥じないよう、フィールドの内外で尊敬に値するメンバーですばらしいチームをつくって、試合に全力で挑みたいと思う。」

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 ホルツ氏は、帰国後、試合に出たいとすでに名乗り出ている100人のノートルダム大学卒業生の中から、トライアウトを行い、来日メンバーとなる60名の選定作業に入るという。 すでに来日決まっているメンバーだけを見ても、長年NFLに在籍したベテラン選手や、昨年までNFLキャンプに参加していたような若手も名を連ねている。 ノートルダム・レジェンズは、フレンドリーマッチ感覚ではなく、これが“これが本場のアメリカンフットボールだ!”といわんばかりの本気モードで誇りをかけて挑んでくるだろう。
 日本代表にとって、これまでにない最も手強い相手になることは間違いない。

 日本のアメリカンフットボールの歴史において、大きなターニングポイントになる7月25日の東京ドームでのゲームデーに向けて、いよいよ準備が始動した。

写真(上):ホルツ氏は記者会見で、日本での思い出を熱く語った。
写真(下):ホルツ氏が東京ドームにどんなチームを連れてくるのか、今から待ち遠しい。


<近藤 祐司[こんどう・ゆうじ]プロフィール>

1974年 京都府生まれ
立命館大学パンサーズ時代のアメリカンフットボール日本代表の経験を活かし、独自の視点と感性をベースにした実況は、アメリカンフットボール、野球、ロードレースなど、種目を問わず各局から定評を得ている。7年間の在米経験で得た英語力を武器にした海外取材力は専門記者をも圧倒する。日本では数少ないスポーツ専門のアンカーマン。